江戸十組問屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 15:06 UTC 版)
その頃、菱垣廻船で大坂から荷物を引き受けていた江戸の十組問屋が、株仲間免許を願い出た。 これは冥加金10200両を上納し、これをしばらく貸し下げることを求め、これを三橋会所の元金に組み入れ、貸し付けを営み、その利子で三橋の修繕をしたいと願い出たものであった。文化6年にその願い出が許可されてから、橋銭の徴収は中止された。 十組仲間は、江戸の定飛脚問屋・大阪屋茂十郎(杉本氏)が頭取となって組織されたが、茂十郎の計画は次のようなものであった。 十組問屋所有の菱垣廻船100艘が1年に4回、大阪江戸間を往復するとし、1往復ごとに歩銀として銀200目をとると、1年80貫目すなわち、金1333両1分と銀5匁になる。 これを三橋手当金とする。 ただし、この金は遊ばせておかず、十組中、裕福な諸問屋に諭して差加金をさせる。また、上述の十組から上納する冥加金10200両の半額を、幕府から貸し下げてもらう。以上3口をあわせて、問屋中、資本の不手回りのものに、1年8分の利子で貸し付る。その利子で、三橋の架け替え修繕の費用をまかない、余裕があれば積み立てる。それが4、50万両ほどになったら、大坂表の問屋はもちろんのこと、諸国荷主に対して原価引き下げを談判する。その代わりに、会所の手から送荷物の代金滞りや、不勘定のないようにする。 以上のように、すこぶる大がかりなものであった。 当初、十組問屋は順調に発展し、茂十郎は、十組問屋頭取や、町方御用達となる。さらに、3人扶持を賜って、名字を許され、奉行所では地割役に次ぐ立場にもなった。 十組はその後、朝鮮人来聘につき、対馬まで菱垣船12艘を無賃で差し出し、文化7年・8年の米価下落のときには、買持米に尽力するなど、功労少なからずであった。そして、文化10年には株札下付となった。
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