江戸周辺の秩序の動揺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 22:23 UTC 版)
「府中秣場騒動」の記事における「江戸周辺の秩序の動揺」の解説
歴史学者の大石学は、この事件を「江戸周辺の支配体制の動揺と、幕府の権威の低下」「評定所機構の弛緩」を顕在化させたことで、後の享保の改革の前提として重要なものと捉えている。そして、大岡忠相が関東地方御用掛として武蔵野新田などを開発・支配したことは、地域秩序の動揺への対応であり、江戸周辺の地域政策としての意義を持つものと考えている。 この騒動は、徳川綱吉の生類憐れみの令で鷹狩が廃止されたことで、幕府の鷹場・狩場に指定されていた芝地や空地に農民が入り込み、秣を勝手に採取するようになったことが原因となって、地域秩序の動揺につながったと当時の幕閣は認識していた。 武蔵野地域に限らず、伊豆国加茂郡・田方郡、上総国市原郡、武蔵国都筑郡、常陸国多河郡、下総国香取郡といった関東一帯で、秣場や入会をめぐる争いがあったことが、享保5年から14年までの評定所の記録「裁許留」で確認される。 それを受けて、享保8年(1723年)5月、町奉行所は武蔵野地域に宛てた触で、武蔵野周辺やその他の芝地・空地での農民たちの勝手な秣採取を戒めている(木村礎・伊藤好一編『新田村落』(文雅堂書房、1960年)76頁)。 そして、元文元年(1736年)に、大岡忠相の主導で行われた武蔵野新田の検地により、周辺の住民が秣を採取する入会地であった武蔵野は、村別所持、個人別所持へと分割され、新たな地域秩序が形成された。
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