江戸周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 05:14 UTC 版)
長州征伐や海上封鎖の影響を直接受けなかった江戸でも大坂と同じように10年前の米価の4倍の水準にまで跳ね上がっており、市民の不満は急激に高まっていた。5月28日には品川宿で打ちこわしが始まり、翌日以後、江戸市中及び内藤新宿でも同様の事態となった。江戸の打ちこわしは大坂と比べて小規模ではあったが、6月6日まで散発的に続いたが、江戸町奉行はその取締りを十分に行うことが出来ず、奉行所の門外に「御政事売切申候」という張り紙までされる始末であった。この打ちこわしでは江戸に多かった西洋との貿易を扱う商人も襲われており、また打ちこわしから3ヵ月後の9月18日にはヴァン・ヴォールクンバーグアメリカ公使が道に迷って雷門前に出たときに江戸市民の投石にあって警備の武士と小競り合いとなるなど江戸の治安は悪化しつつあった。 6月13日に武蔵国秩父郡を中心とした武蔵15郡・上野2郡の地域で総勢十数万とも言われた武州世直し一揆が勃発した。19日に幕府軍に鎮圧されるまでの7日間に参加した村200余り、打ち壊された村役人や豪商の屋敷520ヶ所と言われる大規模な一揆に発展した。後に一揆のうちの一部集団には横浜の外国人居留地を襲撃する計画があったことも発覚し、続く9月のアメリカ公使襲撃(前述)と並んで外国公使らを緊張させ、江戸幕府に米価・貧民対策を迫る原因となった。 ほぼ時を同じくして幕府天領の陸奥国伊達信夫両郡において「生糸并蚕種紙改印」(慶応元年実施)の廃止などを求める信達騒動(信達一揆)が発生した。6月14日から6日間にわたる一揆は村役人の邸宅や桑折代官所を襲撃し、隣の福島藩の中枢である福島城城下町に突入した。福島藩は武力で威嚇して解散させたものの、一揆の過激化を恐れて一揆側の要求そのものは全面的に受け入れた。
※この「江戸周辺」の解説は、「世直し一揆」の解説の一部です。
「江戸周辺」を含む「世直し一揆」の記事については、「世直し一揆」の概要を参照ください。
- 江戸周辺のページへのリンク