新田開発と用水路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 05:55 UTC 版)
近世になると稲作技術が進展し、石高の向上を競った領主や諸藩の大名などにより新田開発が盛んに進められるようになる。同時に、稲作に欠かせない水の確保が課題となり、川などから直接の引水が難しい地域へ農業用水を引くための用水路が各所に造られるようになる。 特に、天正年間に豊臣秀吉の傘下で関東へ転封された徳川家康は、江戸周辺での新田開発に注力する。小泉次大夫(こいずみじだゆう)を用水奉行に登用し、多摩川流域の扇状地に灌漑用水路を巡らせた。これにより新田開発が進み、米の生産量を大幅に伸ばすことに成功。後に幕府が置かれ、当時は世界一の人口密度であったといわれる江戸の台所を支えた。
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