新田開発と高浜川の開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 07:42 UTC 版)
「高浜川 (愛知県)」の記事における「新田開発と高浜川の開削」の解説
1893年(明治26年)には、農業用水・疏水・物資輸送など多目的の碧海運河の建設が計画された。それまでも新川港から油ヶ淵を通って榎前村(現安城市)までは通船があったが、さらに箕輪村・福釜村・篠目村(いずれも現安城市)などを通って北上し、西加茂郡挙母町(現豊田市)まで開削する計画だった。しかし、その後の様子は定かでなく計画は実行されていない。明治10年代には矢作川の流送土砂で油ヶ淵を埋め立てる計画があったが、計画ははかどらずに廃案となった。1881年(明治14年)に明治用水が開通すると一帯で新田開発が盛んとなり、明治年間には現在の安城市域だけでも2,000ヘクタール以上が新田として開発された。安城市域に50か所以上あったため池はことごとく農地に転用され、現在の市域にはため池が一つも存在しない。田からの還元水(悪水)が稗田川・長田川・半場川を流れて油ヶ淵に流入した。油ヶ淵への流入量が増加し、再び農作物への被害が発生するようになったため、1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)にかけて、河川延長2340m・川幅30mの高浜川が開削された。1944年(昭和19年)の東南海地震、1945年(昭和20年)の三河地震、1946年(昭和21年)の昭和南海地震で流域の地盤が沈下し、高浜川・新川の流下能力が低下したため、1952年(昭和27年)から1956年(昭和31年)にかけて高浜川の拡張工事が行われ、現在の川幅60mとなった。高浜川流域や一色町(現西尾市)では50cm程度の地盤沈下が起こっているが、西浦町や形原町(いずれも現蒲郡市)や幡豆町(現西尾市)では逆に100-125cm程度の地盤上昇が起こっている。高浜川と新川では河口部を埋め立てて工業用地の造成が行なわれ、現在の碧南市は面積の約40%が埋め立て地である。
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