明治年間
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1871年(明治4年)12月20日 - 郵便取扱所ができて郵便事務を開始する。 1873年(明治6年)7月 - 瀬野川の瀬替え、開墾を申請。 11月 - 船越村との間に広がる干潟を干拓して鴻治新田40町歩が完成。後に船越村と行政界を争う裁判を起こすが1889年に敗れる。 1877年(明治10年)3月10日 - 広島警察署(大区内を管轄)が発足。海田市に分署を置く。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により安芸郡に海田市町と奥海田村(後に東海田町)が成立。 1891年(明治24年)4月17日 - 海田市、奥海田で暴風雨の被害。 6月10日 - 山陽鉄道糸崎駅 - 広島駅間が開通。 1901年(明治34年) - 安芸貯蓄銀行が海田市支店を開業。1916年に破綻するが、1907年に完成した店舗(建物)は残された。 1893年(明治26年)10月17日 - 安芸郡内で水害。海田市にも大きな被害。 1894年(明治27年)4月17日 - 海田市町で大火。下古川床より出荷して258戸が焼失。 1903年(明治36年)12月27日 - 呉線開通式、海田市駅 - 広島駅間の山陽鉄道複線化工事が完成。 1905年(明治38年)6月2日 - 能見付近を震源とする地震により安芸郡に被害。 6月 - 奥海田村、中野村で水害が発生。甚大な被害。 1907年(明治40年)7月15日 - 安芸郡全域に大水害。奥海田村に甚大な被害。 1908年(明治41年)11月8日 - 芸陽銀行設立。 1918年(大正7年)8月14日 - 米騒動が海田市に波及。不穏な状況となる。 1923年(大正12年)7月11日 - 安芸郡で水害。海田市、坂、矢野で甚大な被害。 1924年(大正13年)10月15日 - 秋祭りが暴動に発展(頂戴事件)。 1926年(昭和元年)7月7日 - 県下で大水害。海田市では下市橋、奥海田では市頭橋などが流失。海田市から矢野にかけた大新開約60町歩が泥海と化す。大水害は同年9月11日にも発生。 1936年(昭和11年) - 陸軍が海田市の耕地15万坪、海面(8万坪)を買収。 1939年(昭和14年)8月29日 - 奥海田で山火事が発生。40町歩が焼失。 1944年(昭和19年)9月 - 水害のため海田市に大きな被害。 1945年(昭和20年)10月6日 - 終戦に伴いアメリカ軍第6軍第10軍団第41師団のうち3500人が海田市へ進駐。1946年2月からはアメリカ軍に代りイギリス軍が進駐。 1950年(昭和25年)1月 - 旧軍用地の一部返還が決定。以後、軍用地跡地へ企業誘致などが活発になる。 5月11日 - 奥海田に設置されていた旧軍用上水道施設を海田市と奥海田で共同利用することが決定。 10月14日 - 旧軍用地内に警察予備隊が設置。海田市訓練所の入隊式が行われる。 1955年(昭和30年)8月25日 - 海田市の旧軍用地が完全に日本へ返還。後に岩手缶詰、広島ガス、宇部興産、西日本高圧ガス、広島鋳物工業、徳島ハムなどが進出。 1956年(昭和31年)9月30日 - 海田市町と東海田町が合併し、海田町が発足。
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明治年間(1868年以降)
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場所番付四股名成績備考1868年(明治元年)11月 西大関 鬼面山 9勝0敗1休 1869年(明治2年)4月 東関脇 増位山 8勝0敗1分1休 1869年(明治2年)11月 東関脇 増位山 7勝0敗2分1休 1870年(明治3年)4月 東大関 境川(大纏) 6勝0敗2分2休 境川はこの場所で増位山より改名、大纏は東小結で7勝1敗2休。 1870年(明治3年)11月 東前頭5 兜山 6勝0敗1分3休 1871年(明治4年)3月 東小結 綾瀬川 8勝0敗1分1休 1871年(明治4年)11月 東大関 境川 6勝0敗1分1預2休 1872年(明治5年)4月 西前頭2 兜山 6勝0敗2分1預1休 1872年(明治5年)11月 東小結 兜山 8勝0敗2休 1873年(明治6年)4月 東関脇 雷電 7勝0敗2預1休 この場所から兜山より改め 1873年(明治6年)12月 西前1 鯱の海(佐野山) 7勝2敗1休 佐野山は東前頭2、5勝0敗2分1預1休。 1874年(明治7年)3月 東関脇 雷電 7勝0敗2分1休 1874年(明治7年)12月 西前6 梅ヶ谷 8勝0敗1分1休 1875年(明治8年)4月 西前4 武藏潟 7勝1敗1分 1876年(明治9年)1月 東前3 若島 8勝1敗1休 1876年(明治9年)4月 東前1 浦風 7勝0敗2預1休 1877年(明治10年)1月 西前1 梅ヶ谷 8勝0敗2休 前場所初日から58連勝始まる。 1877年(明治10年)12月 西小結 梅ヶ谷(鯱ノ海) 7勝0敗1分2休 18連勝、鯱ノ海は西前頭筆頭、8勝1敗1休 1878年(明治11年)1月 西関脇 梅ヶ谷 9勝0敗1休 27連勝、開催は前年暮から。 1878年(明治11年)6月 西幕内格別席 響矢 6勝1敗1分2休 梅ヶ谷31連勝。 1879年(明治12年)1月 西関脇 武藏潟 7勝0敗2分1休 梅ヶ谷37連勝。 1879年(明治12年)6月 西関脇 若嶋 6勝0敗2分1預1休 梅ヶ谷42連勝。 1880年(明治13年)1月 東関脇 阿武松(藤田川) 6勝2敗1分1休 もと雷電、藤田川は東前頭5、6勝2敗1分1休。 1880年(明治13年)5月 西大関 梅ヶ谷 9勝0敗1休 51連勝。 1881年(明治14年)1月 西大関 梅ヶ谷 7勝1敗1分1休 9日目、58連勝とまる。 1881年(明治14年)5月 西大関 梅ヶ谷 8勝0敗2休 1882年(明治15年)1月 西前1 鞆ノ平 8勝0敗1分1休 1882年(明治15年)6月 西大関 梅ヶ谷 5勝0敗1分4休 3休は相手力士休場。 1883年(明治16年)1月 東前6 高千穗 7勝0敗1分1預1休 1883年(明治16年)5月 西前10 一ノ矢 7勝2敗1休 1884年(明治17年)1月 東大関 梅ヶ谷 7勝0敗1分2休 1休は相手力士休場。 1884年(明治17年)5月 西小結 大達 8勝0敗1分1休 1885年(明治18年)1月 西三役格張出 大達 7勝1敗1分1休 1885年(明治18年)5月 西関脇 大達 8勝1敗1休 1886年(明治19年)1月 西前9 鶴ヶ濱 7勝0敗2分1休 1886年(明治19年)5月 東大関 劔山(大達) 7勝1敗1預1休 大達は西大関で6勝0敗1分3休。 1887年(明治20年)1月 西小結 一ノ矢 8勝1敗1休 1887年(明治20年)5月 西大関 大達 7勝0敗1分2休 1休は相手力士休場。 1888年(明治21年)1月 東前8 若湊 5勝1敗1分1預2休 1休は相手力士休場。 1888年(明治21年)5月 西前9 小錦 8勝0敗1預1休 1889年(明治22年)1月 西前1 小錦 7勝0敗1分1預1休 1889年(明治22年)5月 西関脇 西ノ海 9勝0敗1休 1890年(明治23年)1月 西小結 小錦 8勝0敗2休 1休は相手力士休場。 1890年(明治23年)5月 西小結 八幡山 6勝1敗1分1預 雨天続きのため9日間で打ち切り。 1891年(明治24年)1月 東大関 小錦 8勝0敗1分1休 1891年(明治24年)5月 西大関 八幡山 6勝1敗2分1休 1892年(明治25年)1月 西前頭4 大戸平 7勝1敗2休 1休は相手力士休場。 1892年(明治25年)6月 東大関 小錦 8勝0敗1預1休 1893年(明治26年)1月 西大関 大戸平 8勝0敗1預1休 1893年(明治26年)5月 東大関 小錦(今泉) 7勝0敗3休 今泉は東前頭5、7勝0敗1預2休(1休は相手力士休場)。 1894年(明治27年)1月 東横綱 西ノ海 7勝0敗3休 1休は相手力士休場。 1894年(明治27年)5月 東関脇 朝汐 8勝1敗1休 1895年(明治28年)1月 東大関 小錦 8勝1敗1休 1895年(明治28年)6月 西小結 大砲 7勝0敗1分2休 1休は相手力士休場。 1896年(明治29年)1月 西前1 鳳凰 8勝1敗1休 1896年(明治29年)5月 東関脇 鳳凰 8勝0敗1預1休 1897年(明治30年)1月 西前8 荒岩 7勝1敗1分1休 1897年(明治30年)5月 西前頭 荒岩 6勝1敗2分1休 1898年(明治31年)1月 西大関 鳳凰 7勝0敗2分1休 1898年(明治31年)5月 東大関 朝汐(大砲、梅ノ谷) 7勝1敗1分1休 大砲は西張出関脇で6勝0敗2分、梅ノ谷は西前頭2で7勝1敗1分。 1899年(明治32年)1月 東前4 常陸山 8勝0敗1分1休 1899年(明治32年)5月 西小結 荒岩 8勝1敗1休 1900年(明治33年)1月 東前5 稲川 8勝1敗1休 1900年(明治33年)5月 西関脇 荒岩 9勝0敗1休 1901年(明治34年)1月 東関脇 常陸山 8勝0敗1分1休 1901年(明治34年)5月 東小結 荒岩 8勝1敗1休 1902年(明治35年)1月 東大関 梅ヶ谷 8勝0敗1分1休 梅ヶ谷はこの場所で梅ノ谷より改名。 1902年(明治35年)5月 東横綱 大砲 8勝0敗1分1休 1903年(明治36年)1月 西大関 常陸山 8勝0敗1分1休 1903年(明治36年)5月 西大関 常陸山 9勝0敗1休 9日目(事実上の千秋楽)に全勝同士で梅ヶ谷と対戦し勝利。常陸山は場所後横綱に推挙されるが、本人は梅ヶ谷も推薦し許可された。 1904年(明治37年)1月 東横綱大関 梅ヶ谷(常陸山) 7勝1敗1預1休 常陸山は西横綱大関で7勝1敗2休、直接の取組では梅ヶ谷に勝つ。 1904年(明治37年)5月 東前1 太刀山 8勝1敗1休 1905年(明治38年)1月 東関脇 國見山 9勝0敗1休 1905年(明治38年)5月 西大関 荒岩 9勝0敗1休 1906年(明治39年)1月 西横綱 常陸山 9勝0敗1休 1906年(明治39年)5月 西横綱 常陸山 8勝0敗2休 1休は相手力士休場。 1907年(明治40年)1月 東大関 國見山 6勝1敗3休 1907年(明治40年)5月 東関脇 太刀山 8勝1敗1休 1908年(明治41年)1月 東横綱 梅ヶ谷 8勝0敗1分1休 1908年(明治41年)5月 西前9 紫雲竜 7勝0敗2預1休 1909年(明治42年)1月 西横綱 梅ヶ谷 7勝0敗1分2休
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明治年間
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明治歌舞伎の黄金時代。 『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅう はなみの まくはり) (明治3年・1870) 『慶安太平記』(けいあんたいへいき)、『丸橋忠弥』 『連獅子』(れんじし) (明治5年・1872年) 『国性爺姿写真鏡』(こくせんや すがたの うつしえ) (明治5年・1872年) 『古今彦三』(こきん ひこぞう) 『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそで むかし はちじょう)6 (明治6年・1873) 『髪結新三』(かみゆい しんざ) 『雲上野三衣策前』(くもの うえの さんえの さくまえ) (明治7年・1864)『天衣紛上野初花』(くもにまごう うえのの はつはな) (明治14年・1881) 『河内山と直侍』(こうちやまと なおざむらい)『河内山』(こうちやま) 『雪夕暮入谷畦道』(ゆきの ゆうべ いりやの あぜみち)(直侍と三千歳) 『天一坊大岡政談』(てんいちぼう おおおか せいだん) (明治8年・1875) 『扇音々大岡政談』(おうぎ びょうし おおか せいだん)、『天一坊』 『極付幡随長兵衛』(きわめつき ばんずい ちょうべえ) (明治14年・1881) 『島鵆月白波』(しまちどり つきの しらなみ) (明治14年・1881) 『島千鳥』『千太と島蔵』 『夜討曽我狩場曙』(ようち そが かりばの あけぼの) (明治14年・1881) 『夜討曽我』 『土蜘』(つちぐも) (明治14年・1881) 『松浦の太鼓』(まつうらの たいこ) (明治15年・1882) 『茨木』(いばらき) (明治16年・1883) 『新皿屋舗月雨暈』(しん さらやしき つきの あまがさ) (明治16年・1883) 『魚屋宗五郎』(さかなや そうごろう) 『盲長屋梅加賀鳶』(めくらながや うめが かがとび) (明治17年・1884) 『加賀鳶』 『北条九代名家功』(ほうじょう くだい めいかの いさおし) (明治17年・1884)『高時』、『天狗舞』、『義貞』 『摂州合邦辻』(せっしゅう がっぽうが つじ) (明治18年・1885年) 『合邦』『合邦庵室』 『水天宮利生深川』(すいてんぐう めぐみの ふかがわ) (明治18年・1885) 『筆屋幸兵衛』(ふでやこうべえ)、『筆幸』(ふでこう) 『初霞空住吉』(はつがすみ そらも すみよし) (明治19年・1886) 『活惚』(かっぽれ) 『船弁慶』(ふなべんけい) (明治19年・1886) 『観音霊場記・三拾三所花野山』(かんのん れいじょうき・さんじゅうさんしょ はなのやま) (明治20年・1887)『志賀の里』、『二月堂』『二月堂・良弁杉由来』(にがつどう・ろうべんすぎの ゆらい) 『紅葉狩』(もみじがり) (明治20年・1887) 『壺坂霊験記』(つぼさか れいげんき) (明治21年・1888)『壺坂観音霊験記』、『お里沢市』 『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべ さとの えいざめ) (明治21年・1888) 『籠釣瓶』 『蔦模様血染御書』(つたもよう ちぞめの ごしゅいん) (明治22年・1889) 『細川の血達磨』 『神明恵和合取組』(かみの めぐみ わごうの とりくみ) (明治23年・1890) 『め組の喧嘩』 『戻橋』(もどりばし) (明治23年・1890) 『怪異談牡丹灯籠』(かいだん ぼたん どうろう) (明治25年・1892) 『素襖落』(すおうおとし) (明治25年・1892) 『春興鏡獅子』(しゅんきょう かがみじし) (明治26年・1893) 『鏡獅子』 『暫』(しばらく) (明治28年・1895) 『江戸育於祭佐七』(えどそだち おまつり さしち) (明治31年・1898) 『お祭り佐七』 『人情噺文七元結』(にんじょうばなし ぶんしち もっとい) (明治35年・1902) 『桐一葉』(きりひとは) (明治37年・1903) 『沓手鳥孤城落月』(ほととぎす こじょうの らくげつ) (明治38年・1905) 『土屋主税』(つちや ちから) (明治40年・1907) 『女殺油地獄』(おんなごろし あぶらの じごく) (明治42年・1909) 『身替座禅』(みがわり ざぜん) (明治43年・1910) 『修禅寺物語』(しゅぜんじ ものがたり) (明治44年・1911)
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明治年間
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1875年1月 - 公立小出島校(現在の小出小学校の前身)開学。 1877年 - 三国街道が国道一等に指定。後に国道8号に昇格するものの新潟・群馬県境区間の荒廃により格下げ。 1875年 - 堀之内警察所(後に小出警察署)が発足。 1879年4月9日 - 郡区制施行。魚沼郡を北・南・中の3郡となる。北魚沼郡役所が小千谷に置かれる。 1889年4月1日 - 町村制施行により北魚沼郡内に小出町村、青島村、佐梨村、島町村、堀之内村、城下村、宇賀地村、田川入村、湯ノ谷村、八箇村、藪神村、羽川村、下条村、中条村、小平尾村、須原村、広瀬村、上条村、高根村、入広瀬村が成立。南魚沼郡内に伊米ヶ崎村が成立。 1893年4月1日 - 高根村が分割され、横根地区が入広瀬村に編入合併し、高倉地区が高倉村となる。 1896年7月19日 - 熱帯性低気圧が通過したことによる集中豪雨(横田切れと呼ばれる出水)。魚野川沿いで被害多数。 1896年8月14日 - 小出村と青島村が合併して小出町となる。 1901年11月1日 - 小出町、佐梨村、島町村の一部(四日町地区)が合併して小出町となる。島町村の残部(中島・中島新田地区)は藪神村、羽川村と合併して藪神村となる。堀之内村、城下村、宇賀地村が合併して堀之内村となる。湯ノ谷村と八箇村が合併して湯之谷村となる。須原村と広瀬村が合併して須原村となる。上条村と高倉村が合併して上条村となる。下条村、中条村、小平尾村が合併して広瀬村となる。
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