明治屋創業以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:26 UTC 版)
神戸港で勤務していた頃、同社の船舶の食料品・雑貨類はイギリスやデンマークの商社が独占的に納入していた。これを見て計はシップチャンドラー(資材・食糧などの船舶納入業)を始めることを決意し、1885年(明治18年)9月に日本郵船が設立されると同社への雑貨納入権を獲得し、10月に三菱を退職して横浜で明治屋を創業した。このころより米井源次郎と協力関係が始まる。明治屋は、船舶納入業の他に食料品の卸売・小売、酒や煙草の輸入業務も行なった。なお当時は食料品販売は「賎業」とも評され、友人の中村弥六や大久保利和も計の心境をいぶかしむほどだったという。 明治屋は外国の一般船やアメリカ、イギリスの軍艦などとも取引を行なうようになり、業務を拡大していった。この頃、ジャパン・ブルワリー(現・麒麟麦酒)が日本全国でのビール販売開始を検討しており、日本郵船で面識のあったブルワリー社書記のタルボットに計は代理店契約の締結を申し込んでいる。結果、トーマス・ブレーク・グラバーの推薦もあって1888年(明治21年)5月7日に国内総代理店として契約を締結した。これによって直営地域の横浜・長崎以外での販売権を明治屋が獲得し、明治屋の支払能力については豊川良平と鶴原定吉が5万円まで個人補償をする事となった。 ビール販売に際しては、販売網の整備とともに広告・宣伝業務に力を入れた。計は様々なアイディアを出し、大阪では音楽隊、横浜ではキリンビールのマークを大書した幌馬車を用い、後者は横浜名物ともされた。また1889年(明治22年)には新橋駅で日本初のイルミネーション看板を設置したほか、1890年(明治23年)の内国勧業博覧会ではビール樽の形のビアホールを出店し、芸者・ぽん太の美人画ポスターを配布している。 1894年(明治24年)には造船用資材などの輸入販売を目的とした明治屋輸出入店を設立し、グラスゴーにも拠点を置いた。1897年(明治27年)にはこれを磯野商会と改称している。1895年(明治25年)には日本製糖(現・DM三井製糖ホールディングス)の設立に携わるなど精力的に活動した。1897年(明治30年)12月14日)、ハイキン症(肺炎)のため39歳で逝去。またいとこの米井源次郎が娘・菊子の後見人および明治屋の2代目社長に就いている。
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