明治学院総理時代
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明治23年(1890年)に米国留学し、ニューヨークのユニオン神学校で教会史を学ぶ。明治24年(1891年)9月に帰国し、同年11月初代総理J・C・ヘボンの後を継いで、明治学院の第2代目総理に就任する。 明治31年(1898年)3月妻せき子が死去する(享年39)。明治32年(1899年)に大島はなと再婚する。 明治37年(1904年)5月16日、芝公園忠魂祠堂会館で開催された大日本宗教家大会に本多庸一、海老名弾正、小崎弘道らと共に参加する。また、アメリカに渡り、元在日宣教師G・W・ノックスの自宅で、ウィリアム・インブリーと共に明治学院の将来について語り合った。 明治37年から明治38年の間に日本基督教会のミッションからの独立論議の問題が発生した。植村正久が日本の教会の独立を主張してミッションと対立したのである。井深はミッションと植村たち日本基督教会牧師との調停役に奔走した。しかし、ミッションとの関係は冷え切っていた。途中で始まった、日露戦争によりミッションとの関係が好転した。また、本多庸一と一緒に欧米を訪問し、日露戦争について日本の立場を説明するため遊説をして回る。 明治38年(1895年)3月4日本多庸一と基督青年大会創立50年記念世界基督教青年大会に、日本のキリスト教会の代表として出席するためにフランスに向けて出発する。 また、同年4月に芝三田惟一館で開催された宗教家懇談会で結成された日本宗教家協和会の発起人に本多庸一、小崎弘道、海老名弾正、江原素六、平岩愃保、元田作之進らプロテスタント代表の一人として名を連ねる。 明治39年(1906年)の日本基督教会の第20回大会で、井深とウィリアム・インブリー、植村正久の三人は「協力ミッション法」を決議した。ここに、日本基督教会とミッションとの関係が修復された。 明治43年(1910年)6月に開かれたエディンバラ宣教会議に日本代表の一人として出席した。 明治44年(1911年)~大正4年(1915年)まで基督教教育同盟会(現・キリスト教学校教育同盟)の第2代理事長をつとめる。 1914年(大正3年)から、1917年(大正6年)まで行われた全国協同伝道の総委員長に選ばれ、東部の部長植村正久と西部の部長宮川経輝と共に、大規模な伝道活動を行った。その結果大正期のキリスト教会は大きく飛躍した。 大正10年(1921年)に明治学院の総理を辞任して、名誉総理になる。大正13年(1924年)には明治学院を退職する。 大正10年(1921年)に警醒社より出版された『信仰三十年基督者列伝』の中で、キリスト教への入信にの経緯が、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造、小崎弘道、海老名弾正、押川方義らと共に記される。 昭和9年(1934年)6月に脳溢血で倒れてからは、臥しがちになる。昭和15年(1940年)に東京府で死去する。 墓所は青山霊園1-ロ-20-8にあったが、2021年子孫により墓じまいされ、遺骨は横浜市の海に散骨された。後に明治学院大学の手により港区白金の黄檗宗瑞聖寺内の明治学院墓地に記念碑が建立された。
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