明治学院総理時代とは? わかりやすく解説

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明治学院総理時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:06 UTC 版)

井深梶之助」の記事における「明治学院総理時代」の解説

明治23年1890年)に米国留学し、ニューヨークユニオン神学校教会史を学ぶ。明治24年1891年9月帰国し同年11月初代総理J・Cヘボンの後を継いで明治学院第2代総理就任する明治31年1898年3月妻せき子が死去する(享年39)。明治32年1899年)に大島はなと再婚する明治37年1904年5月16日芝公園忠魂祠堂会館開催され大日本宗教家大会本多庸一海老名弾正小崎弘道と共に参加するまた、アメリカ渡り、元在日宣教師G・Wノックス自宅で、ウィリアム・インブリーと共に明治学院将来について語り合った明治37年から明治38年の間に日本基督教会ミッションからの独立論議問題発生した植村正久日本教会独立主張してミッション対立したのである井深ミッション植村たち日本基督教会牧師との調停役に奔走した。しかし、ミッションとの関係は冷え切っていた。途中で始まった日露戦争によりミッションとの関係が好転したまた、本多庸一一緒に欧米訪問し日露戦争について日本の立場説明するため遊説をして回る。 明治38年1895年3月4日本多庸一基督青年大会創立50年記念世界基督教青年大会に、日本のキリスト教会の代表として出席するためにフランス向けて出発するまた、同年4月三田惟一館で開催され宗教家懇談会結成され日本宗教家協和会の発起人本多庸一小崎弘道海老名弾正江原素六平岩愃保元田作之進プロテスタント代表の一人として名を連ねる明治39年1906年)の日本基督教会第20回大会で、井深ウィリアム・インブリー植村正久三人は「協力ミッション法」を決議した。ここに、日本基督教会ミッションとの関係が修復された。 明治43年1910年6月開かれたエディンバラ宣教会議日本代表一人として出席した明治44年1911年)~大正4年1915年)まで基督教教育同盟会(現・キリスト教学校教育同盟)の第2代理事長をつとめる。 1914年大正3年)から、1917年大正6年)まで行われた全国協同伝道の総委員長選ばれ東部部長植村正久西部部長宮川経輝と共に大規模な伝道活動行ったその結果大正期キリスト教会大きく飛躍した大正10年1921年)に明治学院総理辞任して、名誉総理になる。大正13年1924年)には明治学院退職する大正10年1921年)に警醒社より出版された『信仰三十基督列伝』の中で、キリスト教への入信にの経緯が、植村正久内村鑑三新渡戸稲造小崎弘道海老名弾正押川方義と共に記される昭和9年1934年6月脳溢血倒れてからは、臥しがちになる。昭和15年1940年)に東京府死去する墓所青山霊園1-ロ-20-8にあったが、2021年子孫により墓じまいされ、遺骨横浜市の海に散骨された。後に明治学院大学の手により港区白金黄檗宗瑞聖寺内の明治学院墓地記念碑建立された。

※この「明治学院総理時代」の解説は、「井深梶之助」の解説の一部です。
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