米国留学とは? わかりやすく解説

米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 07:11 UTC 版)

李延禧」の記事における「米国留学」の解説

1896年李延禧祖父李春生東遊日本の際に三人の孫と親友の子弟を帯同した。其の中の一人李延禧であり、当時14歲李延禧と他の子弟らは台湾からの第2陣の小留学生として明治学院に学ぶ。1905年李延禧明治学院普通学部中学部)を卒業台湾初の留学生として渡米しニューヨーク大学学び1910年商科学士取得し同年コロンビア大学経済学研究所に学ぶ。1911年帰台し、同年李延禧は《臺灣日日新報》に掲載された〈外遊十四年〉一文の中で日本アメリカで体験語っており、基隆港到着時には迎え出た執事対し返す言葉台湾語出てこなかったほどだったとも言っている。

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米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 07:08 UTC 版)

清沢洌」の記事における「米国留学」の解説

長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較裕福な農家三男として生まれた井口喜源治主宰する研成義塾学んだ1907年明治40年)、17歳のとき当時同地での渡米熱をうけて、研学移民学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州渡航し塾生たちとともにシアトル穂高倶楽部」を結成したシアトルタコマ病院清掃夫、デパート雑役などを務め傍ら、ホイットウォース・カレッジ、タコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ(ただしその履歴を示す文書残されていず、朝日新聞社への就職の際は「米国の大学」をおえたとしている)。 1911年明治44年)頃からは『北米時事』など現地邦字紙記者となり、「信濃太郎」の筆名活躍し数年にして現地日本人社会著名な存在となった当時アメリカ西海岸において日本人移民排斥運動高潮達していた。日本人対す蔑視敵意を、日本国内為政者として、あるいは恵まれた立場在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場味わったにも拘わらず清沢晩年に至るまで一貫して日米友好訴え続けた希有自由主義平和思想家であった1918年大正7年)に日本に帰国した。

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米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 07:19 UTC 版)

折田彦市」の記事における「米国留学」の解説

明治3年1870年3月、米国留学する具定・具経兄弟随行者として折田横浜出航した随行者にはほかに、長崎フルベッキ学んでいた服部一三山本重輔がいた。5人は政府資金援助得られる官費留学生であった政府折田指示したテーマは「制度学」であった岩倉兄弟服部山本ニュージャージー州ニューブランズウィックラトガース大学予備校グラマースクール)に入学したが、折田だけはニューブランズウィックから西へ10km離れたミルストン(英語版)の町に赴き、エドワード・コーウィン(英語版牧師宅に寄宿した。折田だけが別行動になった理由は、折田英語力不足(岩倉兄弟も同様であったが、彼らには身分があった)、日本人学生受け入れ下宿探しの困難、定員制約などが推測されている。歴史学者として知られるコーウィン牧師複数日本人留学生受け入れており、折田神田乃武一時期同居していた。ミルストンで折田毎日のように教会通い聖書勉強会参加するうになる旧知森有礼は、当時駐米公使としてアメリカ赴任していた。折田は、やほかの留学生仲間頻繁に手紙書籍やり取りをしている。原保太郎最上五郎戸田氏共などとは親し交流があったほか、スイス留学していた同郷大山巌文通をしている。 1872年3月岩倉使節団訪米した岩倉具視兄弟状況報告するため、折田ワシントン赴いている。1872年5月、具定は体調不良のため帰国、具経は父と共にヨーロッパ渡り折田岩倉兄弟随員としての制約から解放された。 折田1872年6月27日プリンストンニュージャージー大学(現・プリンストン大学)に合格し入学する長老派教会大学である同校受験したのはコーウィン勧めであるといわれるが、森有礼大きく関わっているとされる折田入学の際には森有礼プリンストンまで赴き、保証人としてサインをしている。ニュージャージー大学1年上には高良二(高良之助)がおり、親交結んだ当初全科目(ラテン語ギリシャ語などの古典語を含む)を履修する正規学生ではなく専科生」としての扱いであったが、古典語はじめとして猛勉強行い4年次には正規学生認められている。一方で在学中には当時アメリカ大学流行していたスポーツにも親しみ男女友人多かったニュージャージー大学学長ジェームズ・マコッシュ(英語版)は、スコットランドから招聘され南北戦争後大学再建努めた人物在任1868年 - 1888年)であり、「秩序ある自由」のもとで学生自主性学習意欲重んじ選択科目制を導入した教育者折田の「自由」の精神は、この留学時代に培われたとみなされている。 キリスト教には熱心に接し祈祷会欠かさず出席、マコッシュの朝礼挨拶にも熱心に参加し学校教会1日3度行くこともあったという。卒業控えた1876年5月28日に、マコッシュの司式によりキリスト教洗礼受けている。1876年6月バチェラー・オブ・アーツ学士)の学位得てニュージャージー大学卒業した卒業に際しては、成績上位者の中から教員投票によって選ばれ式辞述べ栄誉得た板倉によれば、「日本過去及び現在」という題目で、大学内の教会講演行った)。なお、のちの1882年7月マスター・オブ・アーツ英語版)(修士)の学位得ている。 1876年には、米国フィラデルフィア万国博覧会開催され日本政府出展行ったこの際折田博覧会副総裁西郷従道から調査通訳などへの協力求められた。大学卒業後の6月正式に米国費府博覧会御用掛を命じられて2ヶ月勤務し西郷要人視察同行報労金として150ドル受領した折田博覧会終了後西郷許可得て博覧会出品されていた『日本博物誌』を母校寄贈する折田1876年明治9年9月2日ニューヨーク港からアカプルコ号で帰国の途につく。パナマ運河経由しサンフランシスコでシティ・オブ・ペキン号に乗り換え10月27日横浜港帰国した。なお、この船の上同郷文部官僚畠山義成杉浦弘蔵)の死を看取っている。

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米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 14:36 UTC 版)

成瀬仁蔵」の記事における「米国留学」の解説

1890年明治23年)にはアメリカへ渡るアンドーバー神学校クラーク大学[要曖昧さ回避]で教育学社会学キリスト教などを学びユニテリアン的な思想身に付け各種社会施設視察して女子教育研究行い1894年明治27年)に帰国

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米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:44 UTC 版)

ベアテ・シロタ・ゴードン」の記事における「米国留学」の解説

1939年5月アメリカン・スクール卒業した15歳ベアテは、ソルボンヌ大学志望したが、当時フランスとドイツ開戦直前情勢だったため、両親カリフォルニア州サンフランシスコ近郊オークランド全寮制女子大学ミルズ・カレッジ(Mills College)へ留学させることを決める。旅客機ではなく海路(船)により移動していた当時カリフォルニア比較日本に近い女子大でもあり、16歳女の子には安全だろう判断したからであった米国行きにあたってビザ取得の必要があったが、当時すでにオーストリアウィーンナチ占領されビザ取得のための証明書入手が不可となっていたため、父レオは、シロタ近く住んでいた顔なじみ広田弘毅元総理大臣・元外務大臣)に頼る。広田弘毅米国大使電話直談判することで、米国大使館了承得てビザ取得した留学前父母とともに北京上海などを中心に週間中国旅行に出かけ、ベアテ日本中国違いを知る。父母同伴渡米しサンフランシスコ着いたベアテは、とんぼ返り日本に戻る父母見送った後、ミルズ・カレッジに入学専攻文学とし、フランス語研究会演劇部所属勤労女性貧困階級であることが常識だった当時米国で、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハート(Aurelia Henry Reinhardt)は、女性社会への進出自立唱えるいわゆる進歩的なフェミニスト女性だった。大学では、卒業後には就職することを前提としたカリキュラム組まれ学長また、女子学生対し職業持ち政治に参加する必要性説いていた。女性の権利女性差別現実学んだベアテは、大学時代フェミニストとしての自覚を持つ。 フランス語研究会主催パーティベアテナポレオン時代宮廷パーティ模した仮装パーティディレクター務め、後にディレクターとして活躍する演出基礎を学ぶ。 留学中ベアテは、自分が「愛国者の日本人となっていることに気付く。日本から来たことを知った学友日本のことを尋ねるが、そのほとんどは日本についてのあまりの無知無理解質問ばかりで、無神経な発言をしてはばからない態度だったため、そのたび苛立たしい思い駆られて両親の住む日本への郷愁抱き、「自分半分以上日本人となっていることに気づいたからであった。翌1940年5月学年末の試験後二ヵ月間のバカンスで、日本に帰国し、両親一緒に軽井沢の別荘で過ごす。このときの思いを「まさに自分の国への“帰国”だった」と述懐している。ベアテにとって米国留学はカルチャーショック経験であった1941年夏、渡米した両親と過ごす。日米間の緊張の激化を心配した米国友人たち忠告から、母オーギュスティーヌは「このままアメリカ残ろう」と主張。しかし、これまで家族主張反発したことがなかった父レオが、この時に限って東京音楽学校対す契約履行義務を盾に「私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と反論し両親一ヶ月滞在の後、9月になって日本に向かう船に乗ってしまった。帰国途上ホノルルで、米国政府日本入国許可渋ったため、両親ホノルル足止めされた。父はハワイ各地演奏会開いてしのいだ米国政府許可11月下り11月末に両親日本に帰国した。両親乗った船は、日米開戦前の日本行き最後便だった帰国10日後に日本軍真珠湾攻撃敢行両親の住む日本と、ベアテの住む米国開戦いわゆる太平洋戦争)により、これ以後戦争終結までの期間、両親との連絡途絶えることとなったベアテは、親からの仕送りなくなったためサンフランシスコの「CBS リスニング・ポスト(CBS Listening Post)」で、日本からの短波放送内容を英語に翻訳するアルバイトをして経済的自立を果たす。この仕事通じベアテそれまで日本語知識として身につけていなかった文語体敬語学び同時に当時日本からの報道頻出していた軍事用語習得米国滞在していた父の弟子から譲り受けた露日辞典用い、英語からロシア語訳した軍事用語を、日本語翻訳するという作業軍事用語馴染むという方法用いた日系二世でも聞き取れない用語を聞き取ることができたため、上司信頼を得、週給上がった戦争おかげで自活力をつけ、アルバイトで生活を支えながら大学生活継続この間、父からの言いつけピアノだけは毎日弾きなさい」に背きピアノ弾かず好きなダンス映画コンサートにも出かけることなく学業アルバイトだけの生活を送る。 まもなくアルバイト先の会社が、米国連邦通信委員会(FCC)の外国放送サービス部(Foreign Broadcast Information Service)に改組となり、合衆国政府管轄下に置かれるベアテは、このFCC仕事通じて日本からの情報凝視し両親消息探ったFCC入手する情報から、両親が無事であることや、父が東京音楽学校罷免された、などの情報得た1945年1月、「ヨーロッパで生活する意志もなかったので」 オーストリア国籍から米国籍を取得している。 卒業年を迎えたベアテはミルズ・カレッジを最優秀(Phi Beta Kappa Society)の成績卒業卒業後、FCCから戦争情報局(USOWI: US Office of War Information)に転職対日プロパガンダ放送日本人降伏呼びかける放送)の番組台本原稿作成仕事従事。二年足らずのUSOWI勤務の後、退職し1945年3月住み慣れたサンフランシスコから叔母(母の妹)の住むニューヨークへ転居ニューヨークで得た職はタイム誌リサーチャーeditorial researcher - 記事素材調査員であった当時タイム誌では、記者全て男性で、記者として女性採用せずリサーチャー全員女性給与女性の方が低い。記者リサーチャー収集した情報素材原稿書きリサーチャー原稿校正行なうことになっていた。記事誤りがあれば、記者男性)の責任問われず、リサーチャー女性)が責任問われ減俸対象となった。「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で、女性差別性別による職業差別)する現実直面しベアテ渡米以来初めての屈辱挫折感を味わう。とはいえタイム誌リサーチャーとしての訓練施したため、後の日本国憲法起草の際、ここで培った能力生きることとなる。 軽井沢の別荘(旧有島武郎別荘浄月庵」)へ強制疎開させられていた両親は、終戦直前1945年7月31日一週間後に警察への出頭命じられた。一週間後の8月6日米国広島市原爆投下出頭しなかったが、憲兵現われず、翌日翌々日連絡がなく、やがて1945年8月15日ポツダム宣言受諾した日本降伏し敗戦迎えたため、両親官憲追及免れた職場リサーチャー全員から協力得てベアテ同年10月タイム誌日本特派員両親安否確認依頼10月24日日本から返事テレックス到着し特派員通訳両親の無事を現認したとの報せを受け、ベアテ日本に帰国できる職を探す当時米国には、日本語話せる白人60人ほどしかおらず、FCC、USOWI、タイム誌での経歴と、6言語話者であること(大学ではスペイン語履修した)を買われ連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の民間人要員リサーチャー調査専門官)として採用されて、空路日本に帰国12月24日焦土となった故国日本厚木飛行場当時神奈川県綾瀬町大和町)に降り立つ千代田区有楽町いわゆる皇居濠端(ほりばた)の第一生命ビル旧日本軍東部軍管区司令部6階GHQ民政局GS: Government Section)に赴任したベアテは、赴任初日12月25日)、三日間の休暇申請両親安否確認世話をしたい、とその事情を説明、これを聞いた上司から二つ返事承諾得て休暇を取る。両親探して奔走したが、父レオNHKピアノ弾いたのを聴いた人が現われ問い合わせた結果軽井沢帰った知らされ電報を打つ。焼け跡となった乃木坂自宅は、わずかな敷石除き跡形もなかった。夕刻、娘からの電報受け取ったレオ軽井沢から上京して第一ホテル港区新橋)に現われ再会を果たす。このとき、母オーギュスティーヌ栄養失調のため、再会はかなわなかったが、翌々日厳寒期の軽井沢再会ベアテ原宿知人宅を借り休暇三日目には戦時中苦しい生活を強いられていた両親東京引き取った

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米国留学

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上條勉」の記事における「米国留学」の解説

1929年昭和4年5月航空工学を学ぶために、横浜港から日本郵船大洋丸米国留学した出立先立ちたくさんの船をあちこち浮かべた、波静かな横浜港晴れた上空ゆるやかに飛ぶ爽快な夢を見た2週間船旅サンフランシスコ上陸後大学入学前中古フォード・モデルT30ドルで買い、マウンテンビューからサンノゼにかけての広大な果樹園地帯で、ユニオン神学校入学予定の、後に日本生産性本部会長になった郷司浩平薬学生の丸山とともにアプリコット)やペア洋梨)をもぐアルバイトをした。サンフランシスコから大陸横断鉄道シカゴへ行き9月からイリノイ大学機械工学科熱力学機構学、熱原動機実験等を学んだイリノイ大学航空学科がなかったため、1年間学んだ後、1930年昭和5年9月ミシガン大学転校することにした。 入学前8月ニューヨークでアルバイト中に虫垂炎になり、プリンストン大学友人岡田五作から、手術受けた病院見舞を受ける。ミシガン大学では航空力学プロペラ理論風洞実験機体構造学、航空機及びプロペラ設計理論空気力学を1ヶ年夏季学校学習した航空学士の学位得て卒業しニューヨーク大学カレッジで、当時航空学会で有名だったクレーミン教授の許で学ぶため、1931年昭和6年)の夏、ニューヨーク移った宿舎日本基督修道会で、日曜日には川俣牧師による礼拝が行われた。ここで7月に、コロンビア大学入学予定川西誠と出会った川西とは親友となる。 同年9月ニューヨーク大学入学した。ところが9月18日満州事変始まり日本満州出兵する日本の円が暴落して授業料納められなくなり移民官連行され当時移民局があったエリス島抑留されたが、寄宿及びアルバイト先のドクター・ペティンゲルの夫人エリス島駆けつけ係官詰問して上條連れ戻してくれた。ニューヨーク大学ではクレーミン教授とタイヒマン教授航空学科の教育受けた。クレーミン教授から、発煙装置用いて流線観測風洞使って行う研究テーマ与えられたが、卒業論文時間切れ完成せず、後に三菱重工入社してから、薄板構造補強材強度に及ぼす影響計算した論文まとめて提出して航空機技術者資格得た1933年昭和8年2月マサチューセッツ工科大学大学院航空学科に入学し幸運に大学ドーミトリー寄宿舎)に入ることができた。理論空気力学スミス教授から、他に理論機体構造学、航空エンジン機体計器等の講義受けた第一学期終えた後、スミス教授から「飛行船メイコン風洞模型を、NACAアメリカ航空諮問委員会)が造って風洞実験からバウンダリー・レーヤー(境界層)の厚さ計測し、その資料用いメイコンのバーチャルマスを算出する」というテーマ与えられ論文パスした夏休み後に、ハーバード大学入学した川西ボストン・シンフォニーホール近くバタビア通りアパート移り住んだ日曜日には、新島襄同志社創立基金集めた教会として知られるアムステルダム教会通った第二学期終え1934年昭和9年6月MIT日本人初の航空学修士学位得た7月から9月まで帰国旅費稼ぎ働いた後、10月ニューヨーク港から貨物船葛城丸に乗船しパナマ運河通りロサンゼルス経由横浜港上陸した

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米国留学

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鶴見俊輔」の記事における「米国留学」の解説

1937年7月、父・祐輔の計らい井口いのくち一郎オーストラリア旅行同年末に父に伴われ米国へ渡り、翌1938年3月までワシントン斎藤博公邸預けられる米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学歴史学者・アーサー・シュレシンジャー・シニア(英語版教授を介して同大学大学院在籍していた都留重人面識を得る。都留生涯の師となった同年9月単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス校(英語版)(全寮制中等学校)に入学1939年9月16歳のとき、大学共通入学試験合格してハーバード大学進学哲学専攻記号論理学者のホワイトヘッドラッセル講演聴講しカルナップクワイン師事した1941年7月日本軍の南部仏印進駐対抗して在米日本資産凍結され日本からの送金止まったため、夏休みニューヨーク日本文化会館日本図書館で本の運搬をして働く。先行きへの不安から、生活費切り詰め成績優秀だったため卒業急いで4年制大学3年卒業できる飛び級コース選択この頃結核のため喀血1942年3月下旬大学第3学年前期終わったとき、FBI逮捕され、東ボストン移民局の留置場経て同年5月戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞英語版内の収容所送られる抑留中卒業論文完成させ、第3学年後期大学授業出席できず、留置場受けた後期試験不合格だったが、それまで成績優秀だったため、卒業論文参考資料とすることで教授会投票により特例的に卒業認められ1942年6月日米交換船グリップスホルム号に乗船経由地ロレンソマルケス交換船浅間丸乗り換え同年8月日本に帰国

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米国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/29 14:54 UTC 版)

田上八朗」の記事における「米国留学」の解説

当時その教室から誰も米国留学をしていない時期に、大藤重夫教授外遊をして紹介したのは米国フィラデルフィアAlbert Kligmanクリーグマン教授であった教授生きた皮膚研究するように勧め米国その後国際的に有名な皮膚科医集まっていた。2年半で7編の論文書いて教授出したが、逸散してしまったというエピソード田上書いている。田上は後に「皮膚生体計測工学」を研究多く器械開発したのは、クリーグマンの影響で、田上開発した乾燥鱗屑(ふけ)を特徴とする一連の慢性皮膚疾患解析方法は、現在各国一般的に使われる方法となっている。

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