猛勉強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の俳諧に対する姿勢のひとつとして、猛勉強が挙げられる。前述のように一茶はまだ駆け出しの頃から、万葉集、古今和歌集といった日本の古典和歌の研鑽に努めていた。その他には源氏物語、土佐日記、梁塵秘抄などといった古典文学そのものと、それらの注釈本。そして古事記、続日本紀、日本三代実録といった六国史、吾妻鑑などといった歴史書を学んだ。文化4年(1804年)、当時、親交を深めつつあった夏目成美は、歴史書から学んだ知識を句にする一茶のことを 日本記(紀)をひねくり廻す癖ありて と、皮肉るほどであった。 また一茶は中国の古典も学んだ。一茶が特に関心を持ったのが詩経と易経であった。享和3年(1803年)、一茶は詩経の講義を聴き、その後、詩経を一茶流に翻案した句作に没頭する。一茶は詩経305編中123編を題材として句作を行ったとされている。また詩経は中国最古の詩歌集でありその内容は素朴なものが多い。中国最古の素朴な詩歌集を学ぶ姿勢は、人々の生活の中から生み出される素朴な声に耳を傾けていくことに繋がっていく。 この時期に作った句には、詩経の世界に孤独な己の境遇を投影した 梅さけど鶯なけどひとりかな などがある。 易経については西国俳諧修行の旅の最中である寛政7年(1795年)には、すでに学び始めていたことが明らかになっているが、本格的に学んだのはやはり享和年間のことであった。実際に一茶は、故郷柏原出身の唯一の門人とされる二竹の縁談話について、卜占を行った記録が残っている。一茶の卜占は当時市販されていた易についての解説本に頼ること無く、易経の原典そのものから自らが学んだ知識に基づいて行っていたものと考えられている。また一茶は易経についても卦を翻案した句を作っていた。 俳句そのものについても芭蕉や蕪村といった先人以外に、同時代の俳諧師についても全国から夏目成美のところへと寄せられる句をまとめた記録簿を成美から借り受け、一茶の目で優れた句を集めた「随斎筆紀抜書」を作成する。一茶はその後、自らのもとに寄せられた全国からの秀句を追記し続け、最終的には1150名の俳諧師からの4672句を収録するに至った。俳諧以外には井原西鶴の日本永代蔵なども読んでいた。 和歌や俳句、中国の古典、井原西鶴の浮世草子以外にも、一茶は世間で話題になった出来事について実にこまめに日記に残していた。芝居好きの一茶は、しばしば市村座、中村座といった芝居小屋で歌舞伎を楽しんでいた。前述のように一茶が旅をした日本各地の方言を蒐集した「方言雑集」は継続的に書き加えられており、各地の名所、旧跡の訪問記録のメモ書きも丹念に残し続けた。後に一茶は還暦を迎えた文政5年(1822年)に、自らの作風について「夷ぶりの俳諧」、つまり田舎風の俳諧であると宣言している。このように一茶は文芸作品に限定することなく、当時の風俗、地方の風俗文化に至るまで多岐の分野にわたって貪欲に吸収して、句作に生かしていった。 なお一茶の旺盛な学習意欲は最晩年に至るまで衰えることが無かった。61歳の文政6年(1823年)から死の直前に至るまで、一茶は「俳諧寺抄録」名付けた「万葉集」、「古事記」といった古典や漢籍、国学の書物などの抜き書きを作成している。晩年の一茶は比較的体調が良いときに、こつこつと抜き書き作業を行っていたものと考えられている。
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