故郷柏原
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小林一茶の故郷である北信濃の柏原は、長野市中心部から北へ約25キロメートルの標高700メートル近い地である。周囲にある黒姫山、飯縄山、妙高山が望め、野尻湖も近いところにある。柏原は北国街道の宿場町であった。北国街道の宿場は慶長16年(1611年)に指定されており、柏原は北陸方面と信濃、そして江戸とを結ぶ交通の要衝として発展して、物資の中継地として地域の中心となっていた。交通の要衝の柏原には江戸からの文化も流入してきた。江戸時代、庶民の文化として発展をしてきた俳諧も、18世紀半ばの宝暦年間には柏原で行われていたことが確認されており、柏原の諏訪神社では例年歌舞伎や相撲の興行が催されていた。 柏原は日本でも有数の豪雪地帯であり、冬になると大人の体がすっぽりと埋もれてしまうほどになる。一茶が柏原の雪について詠んだ句の一つである これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺 は、決して誇張ではない。また火山に囲まれた柏原の土壌は火山灰質で土地は痩せており、しかも標高が比較的高い高原地帯であるため、江戸期は水田よりも畑が多かった。このような厳しい風土は、一茶の作品に大きな影響を与えている。 一方、夏季の柏原は、晴れた日には高原地帯らしいさわやかな気候に恵まれる。冬の厳しさばかりではなく夏のさわやかな気候も、一茶の俳句世界を育む要素となった。 蟻の道雲の峰よりつづきけん アリが延々と行列を作っている情景を見て、あの雲の峰からアリの行列が伸びているのだろうかと詠んだこの句は、夏、一茶の故郷の澄んだ高原の大気が生み出した句でもある。 北信濃は戦国時代後期、川中島の戦いに代表されるように武田信玄と上杉謙信が激しい勢力争いを繰り広げるなど、戦乱が続いた影響で農地も荒廃した。やがて北信濃の戦乱が終息すると農村の復興が始まり、江戸時代に入ると復興は本格化し、新田開発も盛んになっていった。一茶の先祖はこのような北信濃の柏原に移住してきた一農民であった。 一茶が生きていた時代の柏原は戸数約150戸、人口約700名であった。一茶が生まれ育った柏原の特徴のひとつとして、当時、柏原に住んでいた人々のほとんどが浄土真宗の信者であったことが挙げられる。一茶の一族も全て浄土真宗の信者であり、父、弥五兵衛は臨終の床にあって最期まで念仏を唱え続けた敬虔な浄土真宗信者で、一茶自身も熱心な信者であった。浄土真宗の教えもまた、一茶の作品に大きな影響を与えている。 前述のように一茶が生まれ育ち、そして生涯を終えることになる柏原は北国街道の宿場町であった。宿場は人馬を常備して公の業務に備える義務を負っていた。公の業務には佐渡金山で産出された金銀の輸送業務、朱印状などの公文書の輸送業務、そして加賀藩の前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するように人馬を手配するといったものがあった。これらの業務負担は決して軽いものではなく、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。柏原宿ではこの地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878メートルの地域を伝馬屋敷と呼んだ。伝馬屋敷の境界線には土手が設けられており、宿場の発展によって伝馬屋敷の外にも家々が立ち並ぶようになっても、地子免除の特典は土手の内側の伝馬屋敷住民にしか許されなかった。後述のように勤勉であった一茶の父、弥五兵衛はこの伝馬屋敷内の家を購入した。 宿場町の義務として課せられた公の業務負担は重かったが、一方では民間の物資輸送、通行者も北国街道を盛んに利用するようになる。柏原宿は街道沿いに所狭しと家々が立ち並び、活況を呈していた。宿場沿いの家々の多くは馬を飼っており、一茶の父も農業の傍ら、持ち馬を使用して北国街道を通る物資の輸送業を営んでいた。 江戸時代の柏原で一番の名家は、名主を世襲した中村嘉左衛門家と本陣を世襲した中村六左衛門家であった。両中村家は江戸時代初期の中村利茂(肝煎清蔵)を共通の先祖を持つ親戚同士であった。中村六左衛門家は慶安2年(1649年)に仁之倉新田、寛文5年(1665年)には熊倉新田、中村嘉左衛門家は明暦2年(1656年)に大久保新田、寛文2年(1662年)には赤渋新田の開墾を主導した。新田開発の成功に伴い柏原は発展していった。なお、本陣の中村六左衛門家は与右衛門家、徳左衛門家、兵左衛門家といった柏原で有力な家柄となる分家を輩出した。なお、中村徳左衛門家は一茶の最晩年、思いもかけぬ形で一茶に影響を与えることになる。
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