取極一札之事の取り交わし
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「小林一茶」の記事における「取極一札之事の取り交わし」の解説
文化5年6月25日(1808年7月18日)、一茶は江戸を発って帰郷への途についた。文化5年の帰郷の目的は表向き祖母の33回忌参列であったが、実際は弟との遺産相続問題の解決、そして帰郷に向けてのコネクション作りであった。この時の帰郷時、一茶はまっすぐに柏原に向かわず榛名山、草津温泉に立ち寄った。草津温泉では旧知の俳人と再会して約約1か月滞在し、故郷柏原に到着したのは7月初めになった。 7月9日(1808年8月30日)に祖母の33回忌法要が執り行われ、その後、一茶は弟との間で遺産分割交渉に本格的に取り組んだ。結局、11月になって弟弥兵衛(仙六)、弥太郎(一茶)そして本家の弥七の連名による「取極一札之事」が、村役人に提出された。遺産相続問題にようやくひとつの解決がついたのである。 「取極一札之事」では、親(弥五兵衛)の遺言に基づき、一茶に約3.64石の田畑、あとは山林3か所、家屋敷半分、世帯道具一式、夜具一式の相続が認められた。そして村役人、親類一同が確認の上、紛失したものが無いことを確認済みであること、更に今後、新たに「遺書」が出てきても当取り決めによる決定内容の変更は無いことが明記されていた。この証文の本文は、筆跡から柏原の名主、中村嘉左衛門の筆によるものと考えられている。このことから一茶と弟、仙六との遺産分割交渉に名主、中村嘉左衛門の介入があったことが明らかとなる。 なお、瀕死の父から貰い、遺産相続に際して絶大な威力を発揮した父の遺書は、示談成立後に名主、中村嘉左衛門が預かることになった。どうやら遺産相続問題の再燃を恐れての措置であったと考えられているが、後年まで一茶はこのことを根に持ち続ける。 実際、一茶と弟仙六との間で、田畑についてどのような分割が行われたかについては、「辰御年貢皆済庭帳」という書類から確認が可能である。これは文化6年(1809年)に作成された、前年である文化5年(1808年)の年貢関連の文書である。これによると一茶との財産分割に合意する以前、弟仙六は9.21石あまりの田畑を所有していたことが判明する。9.21石のうち、まず約0.56石を四郎次という人物に引き渡し、残りの約8.65石について、一茶約3.40石、仙六約5.25石という分割を行っている。「取極一札之事」よりも一茶の取り分が約0.24石少なくなっており、また財産分与も均等ではなく、おおよそ一茶4:仙六6という配分である。実際問題として父が亡くなった直後の享和元年(1801年)の資産は7.09石であり、また一茶が故郷を離れた安永6年(1777年)は3.71石であった。7.09石の半分、そして3.71石は実際に一茶が手に入れた資産に近く、遺産分割の考え方として、父の死去時を起点とした遺産の均等配分であるとともに、また一茶が故郷を離れた時、弟の仙六はまだ幼かったことを考慮してみても、一茶離郷時の資産にあたる部分を一茶に渡すのが合理的という判断がされたと考えられる。 文化6年(1809年)より、一茶はこれまで弟、仙六の家族の一員とされていたものが、柏原の宗門帳に戸主として名を連ねるようになり、また年貢関連の書類にも本百姓として名が載るようになった。弟から分割を受けた田畑については、正確なことはは解らないものの少なくとも一部については母方のいとこである仁之倉の徳左衛門に管理を委託し、収穫から徳左衛門が一茶分の年貢を納めていたと考えられている。徳左衛門は一茶の財産問題に関して後見人的な役割を果たすようになる。一茶が手に入れた田畑は柏原では中の上ランクの自作農の所有地にあたり、一茶としても遺産の分割内容について特段の不満があった様子はない。しかし継母や弟にとってみれば、一茶が故郷に居ない間、自分たちこそがずっと小林家の資産を守り続けてきたのに、一茶が少なからぬ資産を手に入れたことは実情に合わない、不利な内容で和解を強いられたとの思いを抱いたものと考えられている。 一茶と弟、仙六との間の父の遺産を巡る対立は、文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」では解決しなかった。最終的な決着は文化10年(1813年)1月の「熟談書附之事」の取り交わしまでもつれ込むことになる。
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