取次の老中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/07/10 10:35 UTC 版)
取次の老中(とりつぎのろうじゅう)は、江戸時代初期の老中のなかでも諸大名が将軍への披露や訴訟、嘆願、贈答物などをスムーズに行うため、幕府側の指示の取次(伝達・仲介)を頼んだ特定の老中をいう。
幕府側も大名統治のために諸藩の指導や調整を行う担当老中として存在を公認しており、1634年(寛永11年)の老中月番制が成立した後は月番老中の担当とすることとなった。しかし諸大名と特定の老中の関係は続いており、幕府への訴訟なども内々の指示を仰いで調整を行い、その上で月番老中に正式な願書を出す手順を取った。
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- 長州藩の場合
- 長州藩では江戸留守居役を介して取次の老中の指南を仰いで幕藩体制の調整を行った。当初は幕府の実力者で老中の土井利勝に取次の老中を依頼しており、病気による辞退を受けてからは新実力者の松平信綱を紹介してもらい、取次の老中になってもらった。[1]
参照
- ^ 山本博文 『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸』 読売新聞社、1991年。ISBN 4643910607。
出典
- 『日本史広辞典』山川出版社、1997年。
取次の老中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 18:07 UTC 版)
幕藩体制下では老中機構が諸大名諸藩を統括することになっていたが、各藩はそれぞれ自藩と幕府、自藩と他藩などの折衝において表向きの外交筋のみならず「内証」のルートも駆使して活動していた。そのため、各藩側では江戸に留守居役を設置して聞次の役割を負わせ、一方の幕府側の老中実力者に事前の情報収集から根回しと調整の担当者として「取次の老中」となってもらうことを依頼した。依頼を受けて取次の老中になった者は、自己の職務をスムーズに執行するために藩の側に立って藩の政治的諸活動を指導した。
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