まつだいら‐のぶつな〔まつだひら‐〕【松平信綱】
松平 信綱 (まつだいら のぶつな)
1596〜1662 (慶長元年〜寛文2年) |
【老中】 「知恵伊豆』と呼ばれた、才気あふれる切れ者老中。 |
江戸前期の老中。松平正綱の養子。9歳で家光に仕える。「知恵伊豆」と呼ばれる才気で老中となり、家光の幕政を支えた。島原・天草一揆を鎮圧し、川越藩主になった。家光の死後も老中として、四代将軍家綱を補佐した。鎖国の建策をはじめ、明暦大火後の江戸都市再開発、玉川上水の開削など、幕閣の中心として優れた手腕を発揮した。 |
年(和暦) | ||
●1597年 (慶長2年) | ■慶長の役 | 1才 |
●1600年 (慶長5年) | ■関が原の戦い | 4才 |
●1603年 (慶長8年) | ■江戸幕府開府 | 7才 |
●1604年 (慶長9年) | ■朱印船貿易始まる | 8才 |
●1607年 (慶長12年) | ■第1回朝鮮通信使来る | 11才 |
●1609年 (慶長14年) | ■オランダ人に通商許可 | 13才 |
●1612年 (慶長17年) | ■幕府直轄領に禁教令 | 16才 |
●1612年 (慶長17年) | ■駿府の銀座を江戸に移す | 16才 |
●1614年 (慶長19年) | ■大阪冬の陣 | 18才 |
●1615年 (元和元年) | ■大阪夏の陣 | 19才 |
●1617年 (元和3年) | ■日光東照宮社殿竣工 | 21才 |
●1617年 (元和3年) | ■吉原遊郭の開設許可 | 21才 |
●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 | 28才 |
●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 | 33才 |
●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 | 41才 |
●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 | 43才 |
●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す | 45才 |
●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 | 47才 |
●1651年 (慶安4年) | ■慶安の御触書公布 | 55才 |
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 63才 |
・狩野 探幽 | 1602年〜1672年 (慶長7年〜寛文12年) | -6 |
松平信綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/03 06:08 UTC 版)
松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
- ^ 『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は武家の京都巡見にあたり提出された書物である[33]。方広寺は江戸時代に武家の京都巡見地の一つになっていたが、巡見に際しては事前に妙法院に方広寺の由緒を記した書物を提出するよう求められた[33]。そこに記された内容は妙法院の公式見解とされている。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は稲垣重富の巡見に際して提出された書物とされ、大仏再建の経緯などが綴られている[33]。妙法院日次記の元禄16年5月27日条に、巡見にあたり提出した書物控があり、その中の「釈迦心柱ノ書付」が『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』と題されている[33]。上記は『妙法院日次記』2巻に収録されている[33]。
- ^ 10月29日説もある(『信綱記』(『改訂史籍集覧』第26))
- ^ 遠江国徳利里が出生地とも伝わる(『大河内家譜』2)
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P20。『名将言行録』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936
- ^ (『豊橋市史』第6巻。『大河内家譜』2)
- ^ ただしこれまでの扶持米は幕府に収公された。なお、この500石は家光が信綱を特に評価して与えたという
- ^ 『信綱記』『明良洪範』『家乗附録』
- ^ 『寛政重修諸家譜』に記録がある。ただし『神奈川県史』通史編2などは相模に当時与えられるほどの領地の余裕は無く否定されており、寛永10年(1633年)といわれる
- ^ 『徳川実紀』第2篇
- ^ このとき細川忠利が信綱に祝儀の品を贈っている
- ^ のちの若年寄
- ^ 『江戸幕府日記』
- ^ これは家光が行政事務の停滞に苛立って老中の任のみに専念させるためといわれる
- ^ 重昌の嫡男・板倉重矩が父と共に出陣を信綱に嘆願したが信綱は拒絶した
- ^ 11月28日付の土井利勝・阿部忠秋ら連署による水野勝成宛の老中奉書では「今度嶋原天草きりしたん蜂起之儀今程は相済み申すべく候。然れば彼の跡以下御仕置として、上使松平伊豆守ならびに戸田左門これを差し遣はされ候」とある(『下総結城水野家文書』)
- ^ 信綱には実戦経験が無く、九州の地理も事情も詳しくなかったためといわれる
- ^ 熊本藩主の細川忠利には日本の恥辱であると批判された。ただし信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なったのである。だがオランダ側も2人が戦死し、城内の一揆側からも矢文で誹謗されて中止を余儀なくされた(『通航一覧』第6)
- ^ 杉山頼母、西村半三郎、野間市兵衛、ほか3名。
- ^ 信綱は井伊直孝、阿部忠秋、酒井忠勝らと協力して補佐した(『徳川実紀』第4篇)
- ^ 中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索 /『歴史くらぶ』
- ^ 第4回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その4 / ニュースサービス日経 江古田
- ^ 山内忠直書状
- ^ 1月26日付の忠直書状
- ^ 忠直書状、2月6日付
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
- ^ a b 村山(2003) p.148
- ^ a b 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』注釈書 1999年 p.22-24
- ^ a b 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
- ^ 妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 尭恕法親王日記 p.28
- ^ a b 三上(1996) p.101
- ^ 『甲子夜話 三篇5』平凡社(東洋文庫) 1983年 p.84-85
- ^ 佐藤清彦『贋金王』1997年 p.65
- ^ 東京大学地震研究所『新収日本地震史料補遺』p.175
- ^ a b c d e 張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録)p.27
- ^ 「毀仏鋳銭の謬伝」『三田村鳶魚全集』第六巻 1975年
- ^ 三上(1996) p.102
- ^ 齋藤努・髙橋照彦・西川祐一「近世銭貨に関する理科学的研究―寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析―」2000年
- ^ NHK Eテレの番組『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』の名称は、この別名にちなむ。
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
- ^ a b 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P286。
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P287。
- ^ a b c 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P242、P243。
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P216、P217、P286
- ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P42
- ^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936
- ^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936、P937
松平信綱
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松平信綱(まつだいら のぶつな)
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「Y十M 〜柳生忍法帖〜」の記事における「松平信綱(まつだいら のぶつな)」の解説
幕府老中。官職名(伊豆守)から「智恵伊豆」と称される切れ者。堀一門の惨劇については静観の構えである。しかし柳生宗矩とこの一件を話題にし、さらに晒し者にされた明成に嫌味を言うなど不快の念を覚えている描写がなされている(原作において明成が晒し者にされた際に嫌味を言ったのは彼ではなく伊達政宗であったが、史実では既に故人であったために本作で修正された)。
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