こしょう‐ぐみ〔こシヤウ‐〕【小姓組】
小姓組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/26 23:01 UTC 版)
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小姓組(こしょうくみ)は、江戸幕府に設けられた職制の一つ。徳川将軍の馬廻衆(親衛隊)としての高い格式を持ち、同様の書院番と共に両番と称された。五番方(書院番、小姓組、大番、小十人、新番)に数えられる軍事部門の職制であり、大番、小十人、新番よりも上に置かれた。小姓組の番士には幕府内での出世(両番家筋)の道が開かれていた[1]。
概要
慶長11年(1606年)11月に設立され、水野忠元・日下部正冬・成瀬正武・大久保教隆・井上正就・板倉重宗の6人を番頭(ばんがしら)とした。
同様の組織として五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)があり、小姓組はその中でも両番(小姓組、書院番)に含まれている。一般的にイメージされる「小姓」とは異なり、純然たる戦闘部隊である。設立初期は勤番所の前に花畑があったことから花畑番と呼ばれた。
戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍らの本陣備内にある騎馬隊の任に就き、平時は当初、江戸城内の将軍警護として本丸御殿黒書院西湖の間(この前に花畑があった)に勤番していたが、寛永20年(1643年)の新番創設に伴い、書院番が勤番していた白書院紅葉の間に移動している。なお小姓組は備である書院番と異なり、駿府在番はない[2]。書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった[1]。若年寄支配で、番頭 の役高4000石[3]。6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。西の丸に他に4番あった。
脚注
- ^ a b “旗本(はたもと)/ 御家人(ごけにん). 時代劇用語指南(2008年6月12日)” (日本語). 山本博文 (解説) / 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス. 2022年5月4日閲覧。
- ^ 和田英松、所功校訂『官職要解』 講談社学術文庫 ISBN 978-4061586215、347p
- ^ “小姓組番(読み)こしょうぐみばん” (日本語). 小姓組番とは - コトバンク. 2022年5月4日閲覧。
参考資料
- 竹内誠 『徳川幕府事典』東京堂出版、2003年。ISBN 4490106211。 NCID BA62785700。全国書誌番号: 20573951 。
- 『大日本史料』12編4冊474頁
外部リンク
小姓組
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小姓の概要は諸藩とおおむね同じのため、小姓の項を参照されたい。長岡藩は小姓と中小姓の区別があり各小姓組に所属した。子供を小姓に出す家の当主は、必ずしも大禄ではなく、知行が百石未満の大組の士から召し出されることもあった(小姓・中小姓の役高は30石)。もともと大組所属の藩士の子弟であるためこれらは軍制上は小禄・微禄でも大組の扱いであった。小姓組の長は御小姓組頭と呼ばれ、大組の士のうち御用番(用人)を兼帯するなど比較的高位の者が充てられた。 また小姓組の所属である御刀番は大奥以外で藩主の身辺の細かい世話をするが、これも本来は藩主の刀を預かる番方の役職であるが、実質は役方の役職に近く変化した。御小姓や御刀番は、藩主などに近侍しているため、藩主の日常生活に必要な用達・用務が充分にできないので、その手先となるのが小納戸方である。長岡藩の御刀番・小納戸方には大組の士も小組の士もいた。 なお、『長岡市史』では先述のとおり、家格を寄合組、大組、小組と分けており、小姓組と刀番は家格扱いではない。また、小姓頭を定員2名で奉行兼務、小納戸を定員4名でうち1名目付格、刀番4名としている。
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