小姓騒動とは? わかりやすく解説

小姓騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 22:24 UTC 版)

内藤義概」の記事における「小姓騒動」の解説

義概の跡継ぎ候補には次男の義英、三男義孝がいた(長男の義邦は早世)。 晩年の義概は俳句耽溺して次第藩政省みなくなり藩政実権小姓出身家老賀族之助(木下重堅の孫)に任せていた。しかし賀は己の権勢だけを考えた藩政行い領民に対して重税強いて苦しめた野心旺盛な賀はさらに、自分息子藩主にすることを画策し美貌の妻を義概の側室として差し出した賀の妻はこの時既に妊娠していたが、賀はこれをひた隠し、義概は大した疑い持たずに彼女を側室にした。 病弱だそれなりに有能であった藩主候補の義英は、賀にとっては邪魔な存在であったため、賀は義英の排除画策した。義英を酒色堕落させようとしたが、これに失敗した賀は次に、義概に対し義英を讒言した。 義英と親し浅香十郎左衛門は、賀の専横憂慮してその排除企んだが、計画漏れて捕らえられた。これを好機見た賀は義概に対し、「義英が義孝殺して自分跡継ぎになろうとしている」と讒言した。もともと義孝は義概が50歳を越えてから生まれた息子だったため、義概はこの息子溺愛しており、義英を差し置いて跡継ぎにしたいと考えていたこともあり、義概はこの讒言鵜呑みにすることで、浅香切腹処し、義英も病弱理由廃嫡して蟄居処分にした。 賀はさらに義孝暗殺し、義概の側室生んだ、つまり自分の子を義概の跡継ぎにして藩主据えよう画策したが、延宝8年1680年4月賀の専横を憎む小姓衆の大胡勝之進、山本金之丞、山口岡之助、井家八郎篠崎友之助らの5人によって、賀の腹心であった山井八郎右衛門夫婦殺害されたため、この計画失敗終わった。これら一連の事件通称を「小姓騒動」といい、小姓の5人も後に切腹自殺した賀の主家乗っ取り計画頓挫したものの、この騒動影響その後続いた

※この「小姓騒動」の解説は、「内藤義概」の解説の一部です。
「小姓騒動」を含む「内藤義概」の記事については、「内藤義概」の概要を参照ください。

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