小姓時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 22:58 UTC 版)
尾張国葉栗郡北方村(現在の愛知県一宮市)出身で、織田氏家臣・長谷川与次の子。織田信長に小姓として仕え、矢部家定と共に若年より諸事に用いられた。信長の男色相手として深く寵愛され[文献資料がない]織田家臣時代は「長谷川竹」という呼び名で呼ばれていた。文章における初見は天正3年(1575年)1月30日付けの信長書状で、この時秀一は伊勢で長島城復旧工事に従事する石運びの宿の手配を行っている。 天正6年(1578年)6月、播磨神吉城攻めの際には検使の大津長昌と共に派遣され、菅屋長頼・矢部家定・万見重元・祝重正と番替で検分を行った。同年12月の有岡城の戦いで万見重元が戦死すると、翌天正7年(1579年)1月に安土(現・近江八幡市安土町)で邸宅の入れ替えがあって、旧万見邸が秀一の邸宅となり、旧長谷川邸には高橋虎松が入った。長谷川より上席であった万見の死亡により、席次の繰り上がりがあったと思われ、以後秀一は奉行衆としてより重要な役目を与えられていく。
※この「小姓時代」の解説は、「長谷川秀一」の解説の一部です。
「小姓時代」を含む「長谷川秀一」の記事については、「長谷川秀一」の概要を参照ください。
- 小姓時代のページへのリンク