西軍
西軍
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宵ノ坂 醸之介(よいのざか じょうのすけ) 西軍総大将。 詳細は「#宵ノ坂醸之介」を参照 宵ノ坂 酌人(よいのざか しゃくひと) 詳細は「#宵ノ坂酌人」を参照 緋扇 かるら(ひおうぎ かるら) 声 - 雨宮天 京の妖怪を束ねる大天狗の娘。茜色の長髪に金眼、豊満なバストが特徴。一人称は「わらわ」。誕生日は4月17日。血液型はAB型。身長151センチメートル、体重45.5キログラム。3サイズはB92(F)-W54-H84。 普段は高飛車で威圧な態度と言葉づかいをしているが、実際は純真で極度の照れ屋。2年前の抗争に乱入したコガラシの強さを目の当たりにして以来、熱烈な恋心を寄せている。部下たちの前では本心を知られないようにコガラシを付け狙うふりをしているが、自室にコガラシの写真や抱き枕などの自作グッズを大量に持ち込んでいるなど、その行動はストーカーと化している。 さまざまな古術を現代に蘇らせている天才で、幽奈たちの一斉攻撃を一蹴する実力をもつ。言語化された思念を聞き取ることができる「他心通(たしんつう)」、この世のどこでも見られる「天眼通(てんげんつう)」、空間転送術の「神足通(じんそくつう)」といった神通力が使用できる。最大霊力値は約3万。 コガラシをこけし化してさらい、支離式の儀の呪いをかけて服従させようとするが、幽奈に呪いを破られて敗北する。さらに自身の他心通が狂ったことで、周囲に自身の恋心を知られ、肝心のコガラシからも振られる結果となる。それでもコガラシへの想いをあきらめきれず、今度はコガラシのバイト先であるファミリーレストランのウェイトレスとなり、正当な手段でコガラシの心をつかもうと努力する。 第1回キャラクター人気投票での順位は11位(149票)。第2回キャラクター人気投票での順位は8位(431票)。 巳虎神 マトラ(みこがみ マトラ) 声 - 藤原夏海 かるらの幼なじみである、鵺の半妖の少女。ベージュの短髪と群青色の瞳、褐色肌とかるらに匹敵するバストサイズが特徴。一人称は「アタシ」。常に棒付き飴を咥えている。誕生日は10月10日。血液型はO型。身長171センチメートル、体重60.5キログラム。3サイズはB101(H)-W63-H95。 強者との戦いを最大の楽しみとする戦闘狂で、京妖怪最高戦力とされる怪物。さらにかるらから教えられた他心通を使うことで、相手の心理を先読みすることができる。かるらを「おひいさん」と呼び、その身を案じている。 初登場時は呑子や朧を一蹴し、屋敷に侵入した狭霧と雲雀を同時に圧倒するが、酒を5合呑んで力を高めた呑子との再戦で完敗する。この戦いで呑子をよきけんか仲間と認識するようになり、漫画のアシスタントも務めるようになる。 第1回キャラクター人気投票での順位は16位(24票)。第2回キャラクター人気投票での順位は13位(176票)。 緋扇 我流駄(ひおうぎ がるうだ) かるらの父で、西軍の幹部。かつては勇猛で容赦のない性格だったが、関ヶ原の戦に乱入したコガラシの圧倒的な強さに心を折られ、2年後の現在も腑抜けたままとなっている。現在は緋扇学園理事長。 スズツキ かるらの側近の雀天狗。かるらの命令で、ヤツデ葉札を使った変化の術でコガラシをこけしに変化させる。かるら同様、他者の心を聴く他心通を習得している。 夜々と猫神たちに敗北しアラマキに追い詰められるものの、かるらには絶対の忠誠を誓っており、かるらの命令を命がけで守りぬく。 逢牙が急襲した際は、転送術で幽奈たちを必死にサポートする。 三羽鴉(さんばがらす) スズツキと行動をともにするかるらの家来。実力はかるらやマトラには遠くおよばずとも鴉天狗では十指に入る手練れ。シラタマとの戦いでは、シラタマに敗北するものの彼を霊力切れまで追いつめる。
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西軍
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石田三成(身長:173cm / 年齢23歳) 趣味:ダジャレ / 苦手:柿 主人公。豊臣家に忠誠を誓い、自分の信念に誇りを持ち、敵味方問わず誠実に相対する熱血漢である。そのため、左近らからは「バカ」と呼ばれるが、それこそが三成の最大の魅力であり、長所といえる。情より理屈を優先しがちで、根回しも苦手であり味方は少ないが、彼の真意を知る者たちとは、なかばあきれられながらも強い絆で結ばれている。ゲーム中盤で明らかになるあるエピソードにより、人の心を読む「天の眼」の力に目覚め、これが極限まで高まると、戦場の流れをも読むことができるようになる。つまらないダジャレを連発し、たまきに呆れられることが多々ある。西軍を指揮した経験から、人間的に大きく成長していく。 島左近(身長:180cm / 年齢40歳) 趣味:散歩・旅行 / 好物:団子 三成の家臣であり、天下に名を知られる名軍師。君主である三成を遠慮なしにバカ呼ばわりしているが、実際には敬服の念を持ち、三成の安否が不明となった際にはうろたえ、我を失いかけたりもする。三成の理想論を真摯に受け止め、実現のために命を懸ける、頼れる父親的な存在。 たまき(身長:140cm / 年齢15歳) 趣味:木のぼり / 好物:だいふく 島左近の娘。前線に赴く左近に代わり、警護兼補佐役として、三成を陰に日向に助ける。父同様、三成に対してずばずばと物を言う。仕事第一だった左近とは、幼少時から武芸・軍学を厳しく仕込まれたこともあって心の溝があり、人目のないところではお互いによそよそしく(時には険悪に)接するなど、距離を感じさせる。白ネズミの梅だいふくを連れている。 大谷吉継(身長:178cm / 年齢27歳) 趣味:ひなたぼっこ / 好物:塩こんぶ 三成の親友であり、西軍きっての切れ者。病により余命僅かであり、既に視力を失っているが、三成との友誼と義のため、西軍に参戦する。外見は優男然としているが、優れた戦略眼を持ち、勝つためには時に仲間や自らをも犠牲にする豪胆さを見せる。 宇喜多秀家(身長:168cm / 年齢21歳) 趣味:読書 / 苦手:好き嫌いなし 西軍の主力を率いる武将。備前57万石の大大名であり、秀吉の養子ということもあって、非常にわがままで傲慢なお坊ちゃん。しかし、その栄誉や矜持を守るために、影で人一倍努力している一面もある。 小西行長(身長:150cm / 年齢43歳) 趣味:金勘定 / 苦手:好き嫌いなし 西軍の武将。商人上がりらしく、損得を第一に考え、算盤を手放さない。味方の危機にも「得」を見い出せない限りは、助けに入ることがない。少しでも危険を感じれば、すぐに戦場を離脱しようとするが、それは「家臣や領民のためにも損をしてはならない」という彼なりの哲学によるものであり、家臣らの命のためなら自分を投げ出すことも辞さない。 島津義弘(身長:195cm / 年齢55歳) 趣味:昼寝 / 好物:魚 西軍の武将。「鬼島津」と呼ばれる九州の雄で、無口で泰然とした歴戦の勇士。大大名ながら、関ヶ原参戦時の兵力は少なく、積極的に戦闘に参加しようとしないなど、謎の行動を見せる。家臣一同からの支持は絶大であり、そのリーダーシップを発揮して一騎当千の活躍を見せる。額に丸十字の模様があるオニぼんたんという名のネコを常に抱きかかえている。名前の由来は姿がボンタンに似て、鬼のように強いことから。感情の変化が少ない義弘の感情を表象している。なお、義弘は、朝鮮出兵において、猫の瞳孔で時を見るため、七匹の猫を連れていたという伝承がある。 島津豊久(身長:190cm / 年齢28歳) 趣味:兵法の勉強 / 好物:焼酎 西軍の武将であり、義弘の甥。戦闘を傍観している義弘に代わり、実質的に島津軍の指揮を任されている。敵の策略により、三成に侮辱されたと思い込んでしまったため、誤解が解けた後も三成を嫌い続ける(人の好き嫌いが激しい)。ただし、理に適った采配であれば、受け入れる度量も持ち合わせる。非常に強面。 小早川秀秋(身長:170cm / 年齢16歳) 趣味:笑顔の練習 / 好物:たけのこ かつては豊臣秀吉の後継者として養子になったが、嫡子・秀頼の誕生により、その立場を失うことになった悲劇の貴公子。西軍の主力武将であるが、部隊を動かす気配が見られない。普段は愛くるしい笑顔で邪気のない振る舞いをしているが、胸の内は豊臣秀吉を始めとするさまざまな人物への恨みで満ちている。 毛利秀元(身長:170cm / 年齢22歳) 趣味:囲碁 / 好物:牡蠣 西軍総大将毛利輝元の名代として参戦。兵力的にも西軍の主力であったが、家臣の吉川広家が東軍に通じており、意図的に戦闘を妨害したため、不戦を余儀なくされている。毛利の名の重圧から、自らが決断することを拒み、周りの者の言いなりとなっている。 吉川広家(身長:180cm / 年齢38歳) 趣味:料理 / 好物:エビ 毛利輝元の家臣であり、毛利家では実力と実績があるため、絶大なる発言力を持つ。合戦開始後もまったく動く気配がないどころか、毛利軍の進路を阻む形で布陣している。 安国寺恵瓊(身長:100cm / 年齢53歳) 趣味:おしゃべり / 好物:おとうふ 外交手腕に優れ、僧侶の身でありながら大名となった。武将とはいえ仏に仕える身であるため、争いを嫌い、積極的に戦闘に参加しないこともあるが、必要とあれば、「一蓮托生」の精神で協力を惜しまない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:41 UTC 版)
石田三成 秀吉の寵臣で五奉行の一人。近江国坂田郡の地侍の家の出で、寺の小僧をしていた少年期に秀吉に利発さを気に入られて小姓に取り立てられ、長じて家臣となった。数理に長けた極めて優秀な能吏で、卓抜した吏才を発揮して秀吉に重用された。豊臣家に対する忠誠心は非常に強く、秀吉の死後に野心を露わにした家康を弾劾し、反家康勢力を取りまとめて総勢十万にも及ぶ大軍勢を組織し、未曾有の大戦を挑んだ。 道理と信義を何よりも尊び、背腹離叛が日常の乱世において珍奇なほどの理想主義者。天下簒奪を狙う家康を「老奸」と呼んで目の仇とし、保身しか考えず家康に媚びる諸大名を憎悪する。しかし、明敏な頭脳を持ちながらその発想は常に観念論・倫理を基準とした批評の範疇に留まり、客観的な現実認識ができない。自らの理想を独善的に押し通すことが煙たがられることを理解できず、常々「へいくゎい者」(横柄者)と陰口を叩かれている。また、訴訟などのもめ事も生来の検察官的性格から法理論を絶対視し、人の心の機微をまるで斟酌せずごく事務的に検断して、たびたび反発を受けた。さらに、己の才を高く自負するために人を見下す癖もあり、怜悧で利かん気の小僧といった風貌も相まってことあるごとに無用の反感を買い、腹心の島左近には人から嫌われる要素がこれほど揃っている男も珍しいと苦笑混じりに評された。 関ヶ原では西軍十万の実質的な指揮者として東軍との対決に臨んだ。しかし小身の大名であるために直接指揮できる兵がわずかしかなく、また人望もないために諸将との連携も上手くいかず、軍の統御に難渋した。また防諜・調略といった感覚に欠け、家康の執拗なまでの攪乱工作を防ぐことができず、無数の内応者を出して西軍は内部から瓦解することとなる。敗北後は再起を図って戦場から落ち延びるも捕縛され、六条河原で斬首された。 島左近 三成の腹心。かつては大和国の筒井氏に侍大将として仕え、政略と合戦の天才として名を轟かせた。その才を高く買った三成は、筒井家を辞して近江に隠棲した左近を幾度も訪ねて口説き、ついには自らの知行の半分近くを割いて家老に召し抱えた。その政軍ともに傑出した能力からすでに天下の名士として高名であり、居城の佐和山城と同じく小身の三成には分不相応として、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」などと詠われた。 かつて信玄在世中の武田家に客分として身を置き、家康が信玄に手痛い敗北を被った三方ヶ原の戦いにも参戦し、一騎駆けで潰走した家康を追い回したこともあって、家康とは多少の因縁がある。陰湿な策謀を得意とする家康の性格を好まぬ一方で三成の少年じみた稚気を危ぶみながらも愛し、精神論に傾きがちな三成を戦術家としての現実的観点から補佐した。時に諭し時に叱責し師のように自身を支えてくれる左近を三成も恃みとし、さながら気の合う叔父のように接した。 関ヶ原では鬼神の如き勇猛さで戦場を狭しと駆け回り、東軍将兵を大いに慄かせた。しかし小早川隊の裏切りによって敗戦が決定的になるともはやこれまでと覚悟を固め、僅かな家臣とともに家康の本陣に決死の突撃を試み、戦死する。 小早川秀秋 豊臣家の連枝で、筑前・筑後に大領を持つ大名。北政所の甥で実子に恵まれぬ秀吉の養子となり、一時は後継者とも目された。しかしその器量は凡人以下の愚人であり、無思慮で柔弱な馬鹿殿として天下で知らぬ者はない。常々愚鈍な振る舞いばかりして秀吉の不興を買っていたが、総大将として出向いた朝鮮ノ役で失態を繰り返して後はいよいよ厄介者扱いされるようになった。家康は秀吉に疎んじられた秀秋に近づいて慰撫し、様々な厚情を見せて巧みにその心を捉えた。 関ヶ原には事前に家康に寝返りを約束して西軍の一将として出陣する。しかし秀頼の成人まで天下を任せるという三成の提示してきた巨利に心がぐらつき、戦が過境に入った後も挙措を決めかね日和見していたが、しびれを切らした家康に鉄砲を撃ちかけられて恫喝されるや途端に震えあがり、慌てて東軍に加勢した。この小早川隊の行動がきっかけとなって他の内応諸将も次々と寝返り、西軍は総崩れとなって戦の帰趨は確定した。 直江兼続 上杉氏の家老。傑出した軍略の才を持ち、当主である景勝を補佐する。先君・上杉謙信に少年の頃から仕え、主君というよりも弟子として師事し、その軍法のみならず義侠を尊ぶ性格をも受け継いだ。三成とは上杉家が秀吉に恭順した際に知り会い、共に義を重んじる性格であることから意気投合し、莫逆の契りを交わした。 跡継ぎの秀頼が幼君であることにつけ込んで天下を奪おうとする家康の振る舞いに義憤を感じ、会津征伐に乗り出した家康を三成とともに挟撃するという一大構想を立て、関ヶ原の戦いの発端を作った。家康を怒らせるために叩きつけた弾劾状(直江状)は、徹頭徹尾その非をなじる痛烈な悪罵に貫かれたもので、「このような無礼な手紙は見たことも聞いたこともない」と家康を呆れさせた。 大谷吉継 越前国敦賀を領する大名。元は秀吉の小姓で、秀吉に利発さを愛されて目をかけられ、長じて後に大名に抜擢された。三成とは小姓時代からの親友同士で、癩病を病んだ後も気にせず接してくれる三成に強い友情を感じ、刎頸の交わりともいえる友誼を結んだ。三成の挙兵については当初は無謀と止めたものの、決意が揺るがぬと知るに及んでこれを受け入れ、三成と生死を共にするべく戦陣に立つ。 関ヶ原では癩病が進行し、皮膚が崩れて甲冑も着けらぬ状態で両目も完全に失明していたが、板輿に乗って戦場を回り指揮をとった。かねて秀吉に「百万の軍を任せてみたい」と見込まれた通りその采配は見事なもので、西軍の多くの兵が戦況を傍観して動かぬ中で勇猛果敢に戦い、東軍を翻弄した。ところが戦が佳境に入ったところで小早川秀秋の裏切りに遭い、東軍との戦いで隊形が伸びきっているところを衝かれ、大打撃を受ける。さらには呼応して寝返った叛将達の部隊にも包囲され、しばし絶望的な抵抗を続けたものの、やがて力尽きて自刃した。 安国寺恵瓊 伊予国に領地を持つ大名。元は毛利氏の外交僧であったが織田信長の在世中から秀吉の天下の到来を予見し、毛利氏の外交を秀吉の利に合うよう誘導し、天下取りの一助を担った。豊臣政権が成立して後は、その手腕を高く評価した秀吉によって外交参謀となり、僧のまま大名に取りてられた。秀吉の死後は家康の台頭を見越していたが、自身が築いたと自負する豊臣政権に愛着を持つことから三成の挙兵計画に構想段階から加わり、外交顧問として影響力を持つ毛利氏の西軍参加を取り決め、当主の輝元を西軍総大将の地位に就けた。 関ヶ原には僧の身ながら自領の軍隊を率いて参加し、家康の本陣のすぐ後背の南宮山に布陣する。ところが山頂に布陣した毛利軍部隊を率いる吉川広家の内応の疑惑が持ち上がり、山頂の毛利隊に睨みをきかされるような格好で動きを封じられ、結局一戦もできないまま敗戦を迎えた。西軍崩壊とともに戦場を離脱して逃亡するもののほどなく捕縛され、三成と同様に六条河原で斬首される。 島津義弘 薩摩国の大名。天下第一の名を恣にする薩摩兵を統率する名将であり、朝鮮ノ役ではその武勇は海を超え、明軍・朝鮮軍までをも恐懼させた。現在では頭を丸め「惟新入道」と号しているが、将としての威望は揺らいでいない。 関ヶ原では当初は東軍に与しようとするものの徳川方との意思疎通が上手くいかず、甥の豊久と共になりゆきで西軍に味方することとなる。かつて九州征伐で秀吉に恭順した後に理財の指導を受けたことから元来三成とは懇意であったが、前哨戦での自身を重く扱わぬ三成の態度に立腹し、本戦では西軍のために働こうとせずかといって東軍にも味方せず、戦場で凝然と中立を保ち続けた。が、西軍が惨落して三方ことごとく敵の人馬で満ちた後に俄に軍事行動を開始し、家康の本陣をかすめて退却するという驚天動地の退却戦を試み、士卒の大部分を失いながらも本国に帰り着いた。この島津勢の決死の退却戦は家康の心胆を寒からしめ、その後の巧みな謝罪外交も相まって、敗戦大名でありながら戦後処理において領地を一石も削ることも許さなかった。 吉川広家 毛利氏の重臣。政略・戦略ともに優れた識見の持ち主で、毛利家の軍事を統括する。早くから家康の勝利を予測して東軍加担を主張するも、外交を統括する安国寺恵瓊に退けられる。仮に西軍が勝とうとも豊臣家にすでに政権担当能力はなく、ふたたび乱世に戻るであろう世界を凡庸な器量の輝元はとても乗り越えられないと考え、家康に追従することが毛利家存続の道と判断し、独断で密使を送って東軍に内応を約束する。 関ヶ原には輝元の養嗣子である秀元の補佐役として毛利隊を率いて参戦するものの、家康の本陣後背の南宮山に陣を張りながら一切軍を動かさず、戦況を傍観することに終始した。内応を知らずに軍を動かそうとする秀元を押し留め、三成の再三の督促にも「弁当を使う」などといった屁理屈を弄して動こうとせず、結局弁当を広げるうちに戦は終わった。毛利隊のこの行動は、戦後「宰相殿の空弁当」(宰相=秀元)などと揶揄された。 宇喜多秀家 備前国を中心に大領を持つ大名。秀吉の猶子であり、豊臣家に対する忠誠心は西軍諸将の誰よりも強い。が、少年期より秀吉に猫可愛がりに育てられたため苦労知らずの公達といった面があり、小田原ノ陣や朝鮮ノ役で武功を立るなどそこそこの軍才はあるものの、甚だ政治感覚に欠けており自家の騒動を上手く捌く器量すらない。 関ヶ原には西軍最大の部隊を率いて出陣し、多くの部隊が日和見して動かない中、大谷吉継と同様に死に物狂いで奮戦した。やがて小早川秀秋の寝返りによって西軍が総崩れになると秀秋の振る舞いに憤激して刺し違えて死ぬとまで息巻いたが、家老の明石全登に諭されて戦場から落ち延びることとなる。 真田昌幸 信濃国の小大名。小豪族が群立し周囲を強国に囲まれた厳しい信濃の政情の中で、巧緻な謀略の数々を駆使して生き延び続けてきた老将。殊に戦をさせれば神がかり的なまでの名人であり、戦術家としての名声は天下の津々浦々にまで及んでいる。高い器量を持ちながら小大名の身分に甘んじるしかなかった自身の境遇に強い不満を抱いており、信濃・甲斐の二ヶ国を恩賞として約束されたことから、西軍に味方する。 関ヶ原では息子の幸村とともに居城の上田城に籠城し、中山道を進軍してきた徳川秀忠の部隊を挑発して釘付けにさせて足止めした。わずか二千の兵で三万八千もの大軍を十日間も翻弄し続け、ついに秀忠の関ヶ原本戦への参加を阻むことに成功する。
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西軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 19:25 UTC 版)
「魔法少女プリティ☆ベル」の記事における「西軍」の解説
アメリカ大陸からヨーロッパまでを領土とする王制国家。北軍が弱体化した今では最強の魔王軍となっている。
※この「西軍」の解説は、「魔法少女プリティ☆ベル」の解説の一部です。
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