挙兵計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:56 UTC 版)
これと前後して、訥庵は門弟とともに輪王寺宮を擁立して攘夷の兵を挙げることを画策している。しかし十分な人数が集まらず計画を中止するに至った。これは水戸側に挙兵よりも老中暗殺を優先させたい意向が強く働いたためである。ここに至って、訥庵は老中暗殺に向けて計画を立てることとした。当初、決行日を同年12月15日に定めたが、12月12日に水戸側からの延期の要請があり決行日を12月28日に延期した。12月22日、訥庵の義弟の菊池教中が児島強介に訥庵あての書状を託している。書状の中で、教中は老中暗殺後に生き残った志士がおればその者に会津藩邸に直訴させて会津藩に攘夷の協力を求めることを提案している。訥庵はこの提案に反対し、老中暗殺が成功するか否かに関わらず襲撃後に全員自決する覚悟がなければ計画が成功するはずがないと教中あての返書で述べ、強介に返書を託した。12月26日、訥庵は宇都宮藩の志士と会談し、決行を年明けに延期し、老中暗殺後に朝廷に使者を送って攘夷の勅命を出すことを要請、一橋慶喜を擁立して日光山にて挙兵することを確認している。
※この「挙兵計画」の解説は、「大橋訥庵」の解説の一部です。
「挙兵計画」を含む「大橋訥庵」の記事については、「大橋訥庵」の概要を参照ください。
- 挙兵計画のページへのリンク