左行秀の裏切りとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 左行秀の裏切りの意味・解説 

左行秀の裏切り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:58 UTC 版)

中村勇吉」の記事における「左行秀の裏切り」の解説

左行秀水戸浪士隠匿狼狽し、自らに罪が及ぶのを恐れ藩邸役人にこの事実訴えた江戸役人から慶応3年9月9日(1867年10月6日)、在京土佐藩重役寺村左膳にこの事が伝えられた。左膳山内容堂へ、乾退助江戸築地土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)を隠匿し薩摩藩京都挙兵し場合退助らの一党東国挙兵する計画立てている事と行秀所有している乾退助中村勇吉に宛た書簡写し証拠として列挙し報告することで退助失脚狙った。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろうと言う話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、土佐勤王党一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山義弟)に乾退助脱藩させることを提案島村退助面会して脱藩勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役西野友保(彦四郎)に対し水戸浪士藩邸隠匿していることは、既に5月22日(薩土討幕の密約締結報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟出来ており御沙汰俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は「退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず」と答えたため事なきを得る

※この「左行秀の裏切り」の解説は、「中村勇吉」の解説の一部です。
「左行秀の裏切り」を含む「中村勇吉」の記事については、「中村勇吉」の概要を参照ください。


左行秀の裏切り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「左行秀の裏切り」の解説

土佐藩士乾退助勤王水戸浪士(天狗党残党)・中村勇吉相楽総三里見某らを築地土佐藩邸に匿っていることに対し、同藩お抱え刀鍛冶左行秀江戸藩邸役人密告江戸役人慶応3年9月9日(1867年10月6日)、在京寺村左膳にこれを伝えた大政奉還論を軌道載せようとしていた寺村は、武力討幕派の乾退助の失脚狙い、これを好機とこの件を山内容堂報告した寺村その際乾退助江戸築地土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(筑波浪士)を隠匿し薩摩藩京都挙兵し場合退助らの一党東国挙兵する計画立て薩摩藩密約交わしていると報告した。さらに行秀所有していた乾退助中村勇吉宛てた書簡写しを、動かぬ証拠として提出した

※この「左行秀の裏切り」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「左行秀の裏切り」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「左行秀の裏切り」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「左行秀の裏切り」の関連用語

左行秀の裏切りのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



左行秀の裏切りのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中村勇吉 (改訂履歴)、鳥羽・伏見の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS