左衛門尉酒井家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:29 UTC 版)
広親の長男とされる酒井氏忠(親忠)の家系は代々左衛門尉を名乗ったので左衛門尉家(さえもんのじょうけ)といい、初代・氏忠から数えて5代目が酒井忠次となる。 忠次は、松平広忠・家康父子に仕えた重臣として知られる。重臣家の嫡子であった忠次は家康より15歳年長で、幼い家康が駿府人質生活を送っていた際にも随従し、苦楽を供にしてきた家康から信頼を寄せられるようになった。 桶狭間の戦い以後には、広忠の異母妹を正室とされた(のちの碓氷姫。当時、未亡人であった)。こうして家康の義理の叔父という間柄にまで高められたことから、徳川家臣団の中で益々重用され、ついには吉田城(豊橋市)を託されることとなった。「東三河の旗頭」として東三河4郡に住す国人領主たちを統卒、家康の青壮年期にあった多くの合戦でも彼等を率いて活躍。このような事跡から忠次は、のちに家康側近の武将として顕彰された徳川四天王、徳川十六神将の筆頭に数えられている。 1590年、関東への領地替えを豊臣秀吉に命じられた家康は、後北条氏の旧領に三河軍団を配置した。酒井左衛門尉家は忠次から代替わりをしており、嫡子・家次は下総国臼井(千葉県佐倉市)3万石を与えられた。ところが、ほかの四天王である井伊直政は12万石、本多忠勝、榊原康政には10万石が与えられていた。 この割り当ての理由には、 家康の長男・松平信康の自害を防げなかったのは忠次の不手際、という懲罰的な意味が含まれているとする説(この説では隠居していた忠次が家康に直訴に赴くも、「お前でも我が子が可愛いか」と言われ、やむなく引き下がったとの逸話があり、これを根拠としている。) 豊臣秀吉との内通があったことを黙認していたとする説 秀吉と昵懇としていたことに、家康が不快感を持っていたとする説 反対に井伊・本多・榊原三家に対する待遇が豊臣政権による干渉に基づく破格のものであったとする説 忠次は功績があったものの家次には特に功績が認められなかったからとする説 などがある。 しかしながら、家次の子酒井忠勝の頃に、出羽庄内藩へ加増移封された。14万石といいながら、その領地は実高20万石から30万石ともいわれ、本多榊原井伊に劣らぬ所領を得た。 ところが、"大身の譜代は老中などの役職には就かない"という慣習がありながら、5代藩主として宗家を継いだ酒井忠寄は、14年にわたって老中を務めることとなった。このため、莫大な出費が藩の財政を逼迫させた。また、忠寄の孫・酒井忠徳の代になっても藩の財政は好転せず、参勤交代の費用にも難渋するほど悪化を続けていた。 そこで忠徳は、領内の酒田で優れた経綸の才を見せる本間光丘という人士に藩の財政再建を託した。忠徳の後援を得た本間の働きによって、藩財政は破綻の危機を脱して再び潤いを取り戻している。 幕末では、酒井忠次から数えて13代目の忠篤の頃に奥羽越列藩同盟の一翼を担い、新政府軍に抗うも、のちに恭順。忠篤は蟄居し、その弟忠宝が14代目の藩主に就任し、大泉藩と改名した。反逆の責を問われ減封処分を受けたものの表高12万石(現米6万9370石)に減じられただけで済んだため、現米5万石を割り込むことは無く、中藩藩主(叙爵内規に定められる伯爵の基準)の地位を維持したまま廃藩置県を迎えた。1869年(明治2年)の華族制度の誕生とともに華族に列し、華族令施行後の1884年(明治17年)7月7月、酒井忠篤の代に伯爵に列した。また分家の小大名にあたる松嶺(松山)酒井家は同年7月8日に子爵に叙せられた。 大泉(庄内)酒井伯爵家の邸宅は山形県鶴岡市家中新町にあった。かなり富裕であり、忠宝の養子となって同家の伯爵位を継いだ酒井忠良伯爵(忠篤の子)は山形県の多額納税者になっている。また松嶺(松山)酒井子爵家の邸宅は東京市本郷区駒込千駄木町にあった。
※この「左衛門尉酒井家」の解説は、「酒井氏」の解説の一部です。
「左衛門尉酒井家」を含む「酒井氏」の記事については、「酒井氏」の概要を参照ください。
- 左衛門尉酒井家のページへのリンク