武将として
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安田国継とは京都で知り合った。「天野源右衛門(安田国継)は上方に在り(死んでしまったが)、今も友人である」と語っている。 『続日本随筆大成』には「水野勝成ハ、藩翰譜ニハ、腹悪シキ人ノ様ニカキタレドモ、楢埼景忠ナル者、備後府中ノ人ニテ、大坂城中ニ籠リ、善ク戦ヘリ。勝成福山ニ入部ノ時、首ニ景忠ガ事ヲ問フ。土人大城ノ事、吟味ニナランカト恐レテ、既ニ死セリト云フ。千石ヲ取ラセント思ヒシニ、死シタルカト云テ、惜マレケルヨシ。人材ニ汲々タルハ、サスガ名将ナリトゾ 」とある。 名将言行録には「倫魁不羈(りんかいふき)」 と書かれている。 『常山紀談』には「勝成あら者にて人を物ともせず」と書かれている。
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武将として
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天文12年(1543年)、美濃国の国人領主であった古田重安の弟・古田勘阿弥(還俗し主膳重定と改名したという)の子として美濃国に生まれ、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家譜』に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、織部も父・勘阿弥の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される。 古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)の織田信長の美濃進駐、あるいはその前に織田氏の家臣として仕え、織部は伯父・重安に伴われて足利義昭に属し、長岡藤孝(細川幽斎)の使番を務めた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚。 天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する。その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫と少ないながらも武将として活動している。 信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため織部は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐、四国平定にも秀政と共に出陣している。 同年7月、秀吉が関白になると、織部は年来の功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。このとき、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・千を中川秀政の養女とした上で娶らせ中川家の家老としたという。この重続の子孫は、織部の正系が絶えた後も中川氏の家臣として存続した。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州平定、小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ肥前名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられている。しかし、「古田手高麗」「御所丸茶碗」という高麗茶碗が存在しており、現地で指導した可能性がある。なお、この時の所領は、南山城の瓶原(現木津川市)と東大和の井戸堂(現天理市)で、8千石であった。 慶長3年(1598年)には子の重広に家督を譲ったとされるが、史料に確認できない。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。その恩賞により、晴れて1万石の大名になっている。 この時期の織部は茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、太閤秀吉の「数寄の和尚」(筆頭茶堂)、次いで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役にも抜擢されている。
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武将として
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天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、上総久留里に3万石を与えられた。慶長4年(1599年)、豊臣姓を下賜され、4月17日に従五位下、出羽守に叙任される。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)2月、上総久留里から遠江横須賀6万石に加増移封され、横須賀藩の初代藩主となった。慶長7年(1602年)、家康から松平姓を与えられた。慶長10年(1605年)には大規模な検地を行ない、さらに城下町造りなどを積極的に行なって藩政の基礎を固めた。 慶長12年(1607年)春に病に倒れ、養生のために上洛したが、その甲斐なく9月11日に死去した。享年27。 跡を子の忠次が継いだ。忠次は後に父の旧姓である榊原家の家督を継承している。
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武将として
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天正18年(1590年)の小田原征伐のため家康が駿府を出陣した際には、長柄奉行として長柄(槍)200本を与えられている。戦後、家康が関東へ移封されると、元正もそれに従い、相模国鎌倉郡岡津村(現神奈川県横浜市泉区)の岡津陣屋に移り、大久保長安、伊奈忠次、長谷川長綱らと代官頭に任命された。また、この頃には板倉勝重と共に江戸町奉行に任じられ、江戸の基礎工事に尽力した。年貢徴収においては、豊作の年には多く、凶作の年には少なく、という検見法に似たやり方を行った。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大久保長安、伊奈忠次ら三目代の一人として小荷駄奉行を担当し、兵器や食糧輸送などの後方支援を行った。戦後石田三成の居城佐和山城の引渡し、毛利氏の支配した石見国の銀山の接収なども行っている。 慶長6年(1601年)に東海道を制定した際には、各宿場の巡検などを行い、大久保長安と共に一里塚や伝馬の整備に尽くした。伝馬定書の「御伝馬之定」には大久保長安、伊奈忠次らと共に連署に名を残している。このように民政において多大な功績を残し一定の開発業務の完了後、家康の下において信頼を得た。 また、鶴岡八幡宮の御宝殿の修理も命じられたが、慶長6年(1601年)6月25日、神慮に背く不備があったとして閉門処分を受けた。伊豆国の金山の奉行にも任ぜられたが、大久保長安のような採鉱技術が無かったため実績はあがらなかった。 慶長8年(1603年)からは陸奥国白川郡も管轄した。 慶長11年(1606年)1月、支配地域の農民から、道理に外れた振る舞いが多く、年貢を私物化したと上訴されて失脚し、長男・次男も連座して籠居処分を受けた。慶長20年(1615年)6月28日には、増上寺の源誉(慈昌)を通じて赦免を願ったが、家康から許しが出ることはなかった。ただし、徳川秀忠の命により、古河藩主土井利勝に密かに仕えていたという。 寛永11年(1634年)1月8日に死去し、家は断絶した。弟・宗有の系統も、天和2年(1682年)に不正があったとして流罪に処され、途絶えている。
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武将として
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桶狭間の戦い以降、今川氏真の側近として急速に台頭する。初期には父である大原資良(三河国吉田城城将)と共に松平元康(徳川家康)ら三河における反今川の動きに対する対応を行っていた。その際に三河における寄親や小指南を朝比奈泰朝や朝比奈親徳から受け継いでいる。永禄5年(1562年)に今川氏真が三河に出陣した際には牧野氏を従えて参戦している。その後も氏真側近として訴訟の披露などを行っている。 永禄11年(1569年)、武田信玄の駿河侵攻に際しては、父と共に駿河国花沢城にて抵抗していたが、遠江国高天神城に逃れた後に徳川家康と内応した小笠原氏助に父と共に殺された(『松平記』)と伝えられ、『甲陽軍鑑』も今川氏から離反しようとしたために高天神城にて殺害されたと伝えられている。父の大原資良に関してはその後も存命したとする説もあるが、真明の死亡した場所(高天神城)が諸書で一致し、かつ妻の死も同日に死去したと伝えられていることから、真明が妻と共に殺害されたのは事実とみられる。なお、小笠原氏助は後に龍巣院(静岡県袋井市)へ真明夫妻のために寄進を行っているため、氏助がその死に関わっていた可能性も高い。 『松平記』・『甲陽軍鑑』といった軍記物では、今川氏真を誑かして多くの重臣を讒言して、その結果として武田・徳川の侵攻の際に多くの重臣が今川氏を裏切ったと伝えられているが事実関係は不明である。ただし、大原資良が他国出身でありながら今川氏に重用された経緯があり、次の世代にあたる真明は筆頭重臣格の三浦氏の傍流を継いで、今川氏の重臣と同様の役割を担ったことが今川家中において反発された可能性はある。
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武将として
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天正2年(1574年)の高天神城籠城戦では、城将の小笠原信興らと共に2ヶ月間籠城するも、開城降伏した。敵将の武田勝頼は城兵を寛大に扱い、徳川への帰還を希望する者の身柄はそのままに解放した。こうして帰還した広宣は、同じく帰還し対高天神城の最前線である馬伏塚城を与えられた大須賀康高に与力として配属された。のちに康高がより高天神城を奪還しやすい地に横須賀城を築くと、同じく与力として配属された帰還組の渥美勝吉、坂部広勝らとともに「横須賀衆」「横須賀七人衆」と呼ばれ、武田勢との戦いを続けた。 大須賀氏率いる横須賀衆は、高天神城や小山城の周辺で戦闘を続け、主に高天神城の補給路を遮断した。天正6年(1578年)8月、徳川勢が高天神城下に放火を行い、城からは武田勢が打って出てきたために合戦となった。この際、一番槍久世三四郎(広宣)、二番槍渥美源五郎(渥美勝吉)、一番首坂部三十郎(坂部広勝)という働きがあったと伝わる。天正8年(1580年)、徳川勢による高天神城包囲戦により疲弊した城兵が、最後の突撃に打って出た。3月22日夜、生存していた将兵は城将の岡部元信と共に徳川勢の包囲陣に切り込んだ。広宣ら大須賀・横須賀勢も激戦に参加し、広宣は打ち合う剣の火花で敵味方の顔を区別した、と伝わる。城方は壊滅し、これにより高天神城は落城した。 その後も大須賀氏と横須賀衆は天正壬午の乱、小牧・長久手の戦い、小田原征伐など、数々の戦に従軍した。天正壬午の乱では北条氏の豆生田砦を攻略した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで広宣は坂部広勝らと共に本隊の後備えを務めた。 天正17年(1589年)6月、大須賀康高の死後は後継の大須賀忠政(松平忠政)に同じく与力として属した。忠政は若かったため、横須賀七人衆が補佐することもあったと伝わる。のち、慶長10年(1605年)頃に大須賀氏の与力を離れ、多摩郡南沢に蟄居した。なお、慶長12年(1607年)の大須賀忠政の死後、跡を継いだ大須賀忠次(榊原忠次)が若輩であるため、暫くの名代として大須賀康高の弟である久野城主の大須賀康胤が家中を取り仕切ったが、この康胤と横須賀衆らとの間に諍いがあったという話もある。 しかし、召し出されて徳川家康の直参となり、下総・上総国2500石の旗本に取り立てられた。大坂の陣に将軍・徳川秀忠の先陣として従軍した。この戦いで、坂部広勝の養子となっていた次男の勝宣が実兄の広当と功を争い、戦死している。元和5年(1619年)に福島正則が改易となった時、在京の秀忠は争乱を危惧し、広宣と坂部広勝を緊急に江戸に帰し、会津藩・館林藩・磐城平藩・山形藩兵の指揮権を与えた。 寛永3年(1626年)、死去。法名は真性院日詠。墓所は本妙寺にある(明治43年(1910年)に東京都豊島区巣鴨に移転)。 長男の三四郎広当は新田開墾などにより7000石余の旗本となり、百人組頭などを務めた。広当は寛永3年(1626年)に下総国海上郡内500石を三弟広之に分与しているが、この分家した広之は小姓より累進し、寛文9年(1669年)大名に列し若年寄、老中を歴職し、さらに加増を重ねて関宿藩主6万石となった。
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武将として
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天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。 家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。 慶長15年(1610年)、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男・忠政が継いだ。 大正元年(1912年)、正五位を追贈された。
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武将として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 10:21 UTC 版)
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に一族と共に参じて御家人となる。養和元年(1181年)4月、義連は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)。同年6月に頼朝が納涼のために三浦へと出かけたおり、三浦氏とともに上総広常も出迎えたが、広常は下馬の礼をとらず、頼朝に近侍していた義連がそれを咎めたとか、酒宴の席でその広常と三浦一族の岡崎義実とが水干のことで乱闘寸前になったときに義連が割って入ってその場を納め、頼朝の御感に与ったなどと書かれている(『吾妻鏡』養和元年6月19日条)。ただし『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは疑わしい。 治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれている。1672年に刊行された『会津旧事雑考』によれば、義連は文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍し、その功により、陸奥国会津四郡を与えられたとしている。これは後世の編纂であるから、そのまま信じることはできないが、嘉禄3年(1227年)7月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪と決した際(嘉禄の法難)、奥州に所領を持つ佐原盛時(義連の孫)の預かりとなっている事実から、盛時が宝治合戦以前より会津郡耶麻郡加納庄を領していたことへの傍証となる。また宝治合戦(1247年)の時点、盛時の異母兄が会津の北田や藤倉を名字地とする北田広盛・藤倉盛義の名が『吾妻鏡』にみえるから、佐原氏が宝治合戦以前から会津を所領としていたことは明らかである。 義連は文治5年(1189年)の北条時房の元服の際、頼朝の命により烏帽子親となる。建久3年(1192年)の頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた。 没年には諸説あり、「異本塔寺長帳」では建久3年(1192年)4月15日に75歳で死去、「葦名系図」では建仁3年(1203年)5月17日に78歳で死去、「葦名家由緒考證」では承久3年(1221年)4月15日に82歳で死去とある。
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