毛利氏の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 14:27 UTC 版)
天正2年(1574年)、将軍義昭は織田信長との抗争に敗れ、毛利氏を頼り備後鞆に座すと、信長討伐令を各地に放った。毛利氏と織田氏は対立し、備中を巡る情勢にもまた変化が表れた。 浦上宗景は信長にその地位を保全されていたが、主家と対立を深めた宇喜多直家は、毛利氏に講和を求めると宗景に反旗を翻した。信長は浦上家中の内紛として、毛利氏に仲介を期待したようでもあるが、毛利氏は積極的に直家を支援した。この状況に宇喜多氏に遺恨のある三村元親は、織田氏の勧誘を受け、結果的に同盟者の入れ替わりが生じた。 直後に毛利氏は中島大炊助から三村元親謀反のしらせを受けると、小早川隆景を討伐軍の大将として、同年11月10日笠岡城に出陣した。そして総大将毛利輝元は小田に陣を布き、ここに備中兵乱と称される毛利氏と三村氏の戦が始まった。毛利氏、宇喜多氏は協力して三村勢の諸城を攻め、12月には猿掛城を包囲し落城させると、毛利氏に従っていた三村親成の案内で国吉城を天正3年(1575年)1月1日に落城させ、ついで鶴首城を攻め落とした。天正3年6月2日、ついに三村元親は自刃し、備中に長らく覇を唱えた三村氏は滅んだ。 そして政宗の孫・浦上久松丸を擁立した宇喜多直家は、勢いに乗じて浦上宗景を天神山城から播磨へ放逐し、事実上の下克上を行った。 この後備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。この年毛利元清は、穂井田元資(庄元資)の養子となり、穂井田元清と名乗る。
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