毛利氏に降る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 03:32 UTC 版)
弘治2年(1556年)には元就の次男・吉川元春が石見に侵攻を開始する。藤兼は七尾城を増改築し、居城を移した。6月には益田領への侵攻が開始され、年末には益田氏周辺の小豪族も益田領へと侵攻を開始した。吉見正頼も益田領へと侵攻し、諸城を攻撃している。翌3年(1557年)3月、藤兼は毛利氏に降伏。翌4月に元就は大内義長を自害に追い込み、大内領をほぼ手中に収めた(防長経略)。 元就は「義隆を殺した大罪人」である事に加え、藤兼が長年吉見正頼と対立したことを勘案し、もし藤兼を許せば正頼がへそを曲げて叛逆するかもしれないという懸念から藤兼の処刑を考えていたが、元春がその武勇を惜しんで助命したため、本領を安堵され、以後は毛利氏の家臣となった。永禄4年(1561年)には福屋隆兼が反乱を起こすと討伐に赴き、10月には北九州へと転戦し、大友宗麟と戦っている。永禄5年(1562年)には長年の懸念であった吉見氏との所領問題に毛利氏の裁定を仰ぎ、小競り合いがあったもののこれを解決している。
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