調略と鞍掛城攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。10月18日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛山城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、隆康は隆泰の降伏が偽りであるという証拠を元就に差し出し(実際に降伏が偽りであったかどうかは不明)、ここに毛利軍と隆泰との関係は決裂した。 10月9日より毛利軍7,000(2万との説もある)が攻撃を開始し、杉軍は兵2,600で迎え撃った。杉軍は鞍掛城本丸に1,000、二の丸に800、鞍掛山東部の谷津ケ原と市頭に400ずつの隊で布陣したとされる。杉軍は善戦するも、14日または27日未明に毛利軍が鞍掛城の搦め手より奇襲をかけて杉親子と城兵1,300(そのうち武士は800人とされる)を討ち取り、落城させた。現在でもこの鞍掛城では、この戦いの際に焼けた米が出土する。
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