吉見氏とは? わかりやすく解説

吉見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 03:06 UTC 版)

吉見氏(よしみし)は、日本氏族

藤原北家秀郷小山氏支流[1]
小山政光の庶子・吉見朝信(次郎・三郎)を祖とする。
丹波国の吉見氏。
秩父平氏秩父氏畠山氏)の一族と見られる資重(愛宕三郎)が同国氷上郡または天田郡吉見郷を本貫とした[2]
菅原姓の吉見氏。
清和源氏の吉見氏。
下記の本項で述べる。

吉見氏
二つ引
本姓 清和源氏河内源氏為義
家祖 源範頼
種別 武家
出身地 武蔵国
主な根拠地 石見国能登国
著名な人物 吉見頼興
吉見正頼
吉見広頼
支流、分家 丹波波多野氏武家
石見松本氏(武家)
生田氏(武家)
石見池田氏(武家)
木部氏(武家)
北谷氏(武家)
石見竹内氏(武家)
下瀬氏(武家)
脇本氏(武家)
上領氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

吉見氏(よしみし)は、日本の武家本姓源氏家系清和源氏河内源氏)の棟梁源義朝の六男で、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の庶弟にあたる三河守源範頼を祖とする。通字として「」(より)のほか、範頼の「」(のり)や源氏の通字である「」(よし)などの人名も見られる。

概要

範頼は武蔵国横見郡吉見郷を領して吉見御所と尊称されていた。範頼は謀反の疑いで伊豆国に配流されるが、その次男の範圓(はんえん)・三男源昭(げんしょう)が外曾祖母である比企尼から、横見郡吉見庄を分与された。範圓の子である吉見為頼に至って吉見を名字とした。子孫は御家人として存続し吉見氏と称した。子孫の一人である吉見頼行は能登吉見氏の庶家で、石見国吉賀郡の地頭職を得て下向したものである。石見吉見氏は木部・津和野・吉賀地方の在地領主を被官化しつつ次第に勢力を拡張し、隣接する強豪益田氏と拮抗する有力領主に成長した。戦国時代には大内氏毛利氏の影響下におかれ、江戸時代には毛利氏の家臣として組み込まれたがまもなく粛清された。

吉見氏嫡流の隆盛と衰亡

頼朝は平家の滅亡後、源氏一門の多くを謀反の罪として処刑し、吉見氏の祖である範頼もその例に漏れなかったが、子孫は源氏の名門として存続。執権北条氏が幕府の実権を握った後も命脈を保っていた。しかし、北条氏が武蔵の在地勢力を冷遇したためか[要出典]、為頼3代の子孫義世は謀反を企み事前に発覚したため、処刑される。その弟である義成、通任(通経)らも義世の与党として流刑となり、義世の子である尊頼も渋川氏に養子入りしていたため、吉見氏嫡流の命脈は絶え、宗家の家督と武蔵の所領は2代義春の弟で能登国の住人となっていた吉見頼宗の子、すなわち義春の甥である頼隆の系統に引き継がれた。これらは能登吉見氏、武蔵吉見氏と呼ばれる。

石見吉見氏

石見吉見氏は範圓の庶子の系統だが、頼円に至るまでの系譜は明らかでない。吉見氏は後醍醐天皇の挙兵に際し、朝廷方について戦った。この時の家督は吉見頼直であったと思われる。しかし、後醍醐天皇と足利尊氏との間に亀裂が生じ、南北朝時代に入ると吉見頼直は北朝・足利方につく。室町幕府の成立後、吉見氏は足利氏の一門として遇せられるが、本来は源義国流である筈の足利氏流に該当しない吉見氏が加えられた背景としては、吉見氏だけが南北朝期まで存続していた唯一の源義朝の末裔(頼朝一族の末裔)として重んじられた結果であったとされている[3]。また、丹波国波多野清秀も吉見氏の庶流である[4]

代々、石見国津和野を領して益田氏と共に石見の二大国人として名を馳せた。吉見頼興足利義稙義澄による家督争いにおいては義稙方である大内義興に従い、京都船岡山合戦において活躍した。頼興の子である正頼は吉見氏としては庶流の系統であるが、有力国人として大内義興の娘婿となる。その関係もあり、義興の子・義隆守護代陶隆房の謀反によって死亡し、大内氏を義長が継ぐと、これに反発して反陶の兵を挙げ、陶軍と戦っている。

その後、毛利氏に従ったが、江戸時代初めに謀反の疑いで当主の吉見広長が誅殺された。その後の吉見氏は吉川広家の子・就頼が継承したが、やがて就頼は毛利姓に復し大野毛利家を興したため、吉見氏は断絶した。

吉見氏系譜

系譜

吉見一族の実名と偏諱

人名 偏諱を与えた人物 備考欄
武蔵 吉見 後醍醐天皇:尊治) のち渋川直頼の養子となって義宗に改名。
能登 吉見頼 執権・北条時宗または能登守護・名越宗長 頼宗の息女は名越宗長室。
能登 吉見 将軍・足利尊氏 南北朝動乱期の能登守護。
能登 吉見 将軍・足利義詮 室町幕府奉公衆の一員。
能登 吉見 将軍・足利義満
能登 吉見 能登守護・畠山基国 国頼は氏頼の甥(弟・義頼の子)。
能登 吉見 管領・畠山満家 満家は基国の子。満家の弟・満慶能登畠山氏の祖。
能登 吉見 鎌倉公方・足利持氏またはその子で古河公方の成氏 氏範は家貞の弟。また、娘が足利成氏室と伝わる。
能登 吉見 能登守護・畠山義統 統頼の父は、国頼の子・頼経とされる。
能登 吉見 能登守護・畠山義統 父・統頼と親子二代で義統から偏諱を賜る。
因幡 吉見 将軍・足利義政 政家は家貞の次男・家朝の子。室町幕府奉公衆の一員。
石見 吉見 石見守護・大内弘世
石見 吉見 将軍・足利義成(義政) 応仁の乱時の当主。
石見 吉見頼 石見守護・大内義興(?)
石見 吉見 石見守護・大内義隆 妻は義隆の姉・大宮姫(隆頼早世後はその弟・正頼に再嫁)。
石見 吉見 石見守護・大内義隆 「正」字の偏諱の可能性が高い。隆頼の弟。妻は大宮姫。
石見 吉見 毛利氏 隆頼の弟・正頼の子。毛利氏(元就か)よりその祖先・大江広元の「広」の字を与えられる。
石見 吉見 毛利輝元 広頼の子。
石見 吉見 毛利氏 長次郎、広頼の次男。
石見 吉見 毛利秀就 吉川広家の子で一時期広頼の婿養子。初名は政春。大野毛利家の祖。
石見 吉見 石見守護・大内政弘 吉見氏庶流、奉行人。三郎右衛門尉。一時期"喜什"を名乗る。頼郷の父ヵ。
石見 吉見 石見守護・大内義興 吉見氏庶流、義興側近。源右衛門尉。頼興の子ではない。

脚注

  1. ^ 丹羽 1970, p. 388.
  2. ^ 尊卑分脈』『系図纂要』など。
  3. ^ 谷口雄太「足利一門再考 -[足利的秩序]とその崩壊-」『史学雑誌』122巻12号、2013年。 /所収:谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』吉川弘文社、2019年、190-193頁。ISBN 978-4-642-02958-2 
  4. ^ 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」『史敏』通巻13号、2015年。 /所収:馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、117頁。 ISBN 978-4-642-02950-6 

参考文献

史料
  • 『系図纂要』
  • 『尊卑分脈』

吉見氏

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吉見信一」の記事における「吉見氏」の解説

長岡藩士として続いた吉見氏は、代々医術優れ幕末には大槻玄沢松本良順緒方洪庵蘭学学んだ祖父吉見雲台は、白虎隊士飯沼貞吉治療した人物である。

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