家中融和と吉見氏の追討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
大坂の陣の後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。 元和2年(1616年)7月19日、輝元は家中融和の策として、一人娘の竹姫を吉川広正と婚姻させた。 また、元和3年(1617年)11月には繁沢元景の媒酌により次男・就隆と秀元の長女・松菊子を婚約させ、元和7年(1622年)7月28日に正式に婚姻させた。 元和4年(1618年)8月25日、輝元は清水元親らに命じて、かねてから対立していた吉見広長を追討し、自害に追いやった。 広長は毛利家中での処遇に不満を持ち、関ヶ原の戦い後に独立大名化や他大名への仕官を図って、慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)までの13年間に渡って毛利氏を出奔していたが、大坂の陣の後に許されて帰参していた。他方、輝元は広長の出奔を理由として、吉見氏を毛利氏に吸収するため、慶長17年(1612年)に吉川広家の次男である彦二郎(後の毛利就頼)に吉見広頼の娘を娶らせて吉見氏を相続させるなど、両者の対立が深刻化していた。 輝元は広長との不和に対して、幕府からお家騒動の嫌疑を掛けられ、ひいては毛利氏改易に繋がることを恐れていた。そのことが輝元に広長の追討に踏み切らせることに繋がった。 広長の死より、源範頼以来続いた源氏の名門・吉見氏が事実上滅亡したが、輝元は吉見氏に厳しい処分を下した。広長の父・広頼は同心していなかったとして隠居料を安堵されたが、家臣らに対しては広長補佐の役割を果たさなかったとして追放処分を科し、あわせて防長二国への入国禁止、違反した場合は成敗するとまで言い渡した。
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