家中の反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 23:50 UTC 版)
政重は家中の反発を抑えきれず、天正15年(1587年)に堀江長門守らが反抗の動きを見せた。伊達政宗は4月25日に家臣の伊東重信を派遣し、意見聴取にあたらせた。重信は5月8日に静謐になったことを報告した。事態の収拾には留守政景の助力もあった。 だがそれでも不満はおさまらず、伊東重信が前回とあわせて3度、浜田景隆が1度、高野親兼と片倉紀伊の2人が1度、国分に遣わされた。 政宗は、国分の騒乱は政重の政治がよくないせいだと考え、国分を攻め滅ぼそうとした。小山田頼定に出兵の指揮をとるよう命じ、10月16日には岩沼に拠る泉田重光にも協力を命じた。政重は国分から退き、米沢に参上して政宗に謝罪した。それでも国分家は静まらなかったが、国分攻めは取り止めになった。政重は国分領に帰ることなく、これ以後国分氏の家臣は政宗直轄とされ、「国分衆」と呼ばれるようになった。 政重は、天正14年(1586年)から天正16年(1588年)頃に、盛重と名を改めた。
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