国分氏の継嗣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 23:50 UTC 版)
天文22年(1553年)、伊達晴宗の5男として生まれる。幼名は彦九郎。元服当初の名は政重。輝宗の弟、政宗の叔父にあたる。 天正5年(1577年)、兄・輝宗の命により陸奥国宮城郡の国分氏の後継者として送り込まれた。 政重が国分氏の当主になった事情ははっきりしない。江戸時代に仙台藩が編纂した『性山公治家記録』(伊達治家記録)は、この年に国分盛氏が跡継ぎ無くして死去したため、家臣の堀江掃部らが伊達氏からの当主を迎えるよう運動し、政重が跡を継いだとする。しかし国分の家中には政重を嫌う動きがあり、輝宗は鬼庭良直を派遣して調停させたがうまくいかなかった。そこで輝宗は、自分に次男が生まれたらそれを国分の跡継ぎにするので、彦九郎はそれまでの代官にすぎないと約束した。輝宗は12月19日に、九郎(彦九郎)が堀江掃部尉をないがしろにしたら自分に言うように、と述べる書状を送った。 問題の12月19日の書状は、九郎を国分の代官にしたことについて堀江掃部尉に礼を述べ、九郎(彦九郎)が堀江掃部尉をないがしろにしたら自分に言うようにとしたものである。これからすると、政重が国分氏の当主になったのはそれより後と推定できる。 国分氏の系図には、盛氏 = 盛重と続けるものと、盛氏 - 盛顕 = 盛重と続けるものがある。後者は盛顕は盛氏の子で天正6年(1578年)卒とするから、盛顕の存命中に盛重が代官になり、翌年に盛顕が死んだということになる。子がないから盛重が入ったとする治家記録の話と食い違う。国分氏については他にも諸伝の間に矛盾が多いので、どちらが正しいか判定できず、どちらも間違っている可能性もある。 いずれにせよ、政重の国分氏入りは順調なものではなく、家中の反発は強かったようである。
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