国分盛重の入嗣と国分氏滅亡
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「国分氏 (陸奥国)」の記事における「国分盛重の入嗣と国分氏滅亡」の解説
天正5年(1577年)に、国分氏は伊達晴宗の子、輝宗の弟にあたる伊達政重を「代官」に迎えた。国分盛氏に子がなかったためとも、子の盛顕がいる時に乗り込んだともされるが、詳しい事情は不明である。後に政重は国分盛重と名乗り、国分氏家臣団を率いる伊達氏の武将となった。盛重を迎えたのは家臣の堀江掃部允であったが、天正15年(1587年)に堀江伊勢守(同一人物説もある)が2度にわたって反乱を起こした。最初は留守政景(留守氏に入嗣した盛重の実兄)の援助で鎮めたが、再度の反抗で伊達政宗は堀江の肩を持ち、盛重を討とうとした。盛重は謝罪して許されたが、政宗の居城である米沢に留められ、国分領に政宗の支配が直接及ぶようになった。 天正18年(1590年)までに、留守政景も国分盛重も実質的に伊達政宗の武将になっており、その年に政宗が豊臣秀吉に降伏すると同時に主君を通じて間接的に秀吉に服属したはずであった。しかし秀吉は奥州仕置で留守氏だけを独立した大名とみなし、不服従を理由に取り潰した。国分氏は伊達氏の家臣とみなされたおかげで存続したが、慶長元年(1596年)に盛重が出奔して佐竹氏に身を寄せたため、大名としての国分氏は滅んだ。国分の家臣は伊達氏直属になり、慶長5年(1600年)には国分衆として一部隊をなし、最上氏への援軍に加えられた。彼らの一部は江戸時代にも国分氏に仕えていた頃の伝統を引き継ぎ、白山神社の祭礼に奉仕した。旧臣の中には、百姓になって土着したもの、町人になって新しく作られた仙台の城下町に移り住んだものもあった。盛重の実の男子は3人あり、うち2人は僧になってそれぞれ実永、覚順房宥実と名乗った。1人は伊達氏の家臣古内氏の養子に入り、古内重広として近世初期の仙台藩政を支えた。
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