国分後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:37 UTC 版)
戦後処理の後、秀吉は惣無事令に反した島津氏他を討伐するために九州征伐を開始したが、豊後の大友宗麟救援のため仙石秀久、十河存保、長宗我部元親など四国の大名が先発で派遣された。しかし豊臣軍は島津軍に戸次川の戦いで大敗北を喫し、秀久は戦場から逃亡、存保は戦死、元親の嫡男である信親も戦死したことによりお家騒動の原因となった。本隊の到着により九州征伐は豊臣方の勝利に終わったが、九州国分により四国の勢力地図も書き変わることとなった。逃亡した秀久は讃岐を召し上げられ、変わって後に生駒親正が入った。伊予では僅か2年弱で隆景が筑前へ転封となり、変わって福島正則(東部及び中部の一部)・粟野秀用(中部の一部)・戸田勝隆(南部)に入った。後に正則が尾張に転出し、後嗣のない戸田氏が除封されると、小川祐忠(東部)・加藤嘉明(中部)・藤堂高虎(南部)・池田秀氏(南部の一部)が伊予に配置された。 一方、四国の在地勢力として伊予東部の河野通直は秀吉と敵対もせず、毛利氏と婚姻・友好関係にあったが大名として認められなかったため毛利氏に身を寄せ、家臣は領主となった隆景に従った(ただし、豊臣政権と毛利氏による謀殺説あり)。伊予南部の西園寺は後に戸田氏の配下となったが後に謀殺され、後に讃岐の生駒氏の配下に繰り入れられた十河氏の勢力も次第に減殺されて弱体化していった。これら有能な外様大名が存続したのに対して、様々な理由により豊臣政権に貢献出来ない大名達は時間とともに様々な理由で淘汰されて行くこととなった。
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