粟野秀用とは? わかりやすく解説

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粟野秀用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 13:07 UTC 版)

 
粟野秀用
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 文禄4年7月15日1595年8月20日
別名 通称:藤八郎、喜右衛門(尉)、粟野木工頭
戒名 真光院殿秀明大居士
墓所 慈舟山瑞泉寺
官位 従四位下木工頭(杢頭)
主君 伊達政宗豊臣秀吉秀次
氏族 藤原北家魚名流山蔭流伊達氏傍系粟野氏
父母 父:粟野十郎左衛門尉宗次(粟野喜左衛門尉)
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粟野 秀用(あわの ひでもち)は、安土桃山時代武将大名。通称は、藤八郎、喜右衛門、粟野木工頭。出羽国二色根城主(伊達氏時代)。伊予国征木城主(豊臣氏時代)。官位は、従四位下木工頭

略歴

陸奥国の出身。藤原山蔭(中納言山蔭十二世)の子孫である伊達氏第3代当主・伊達義広(粟野次郎藤原義広)の後裔、粟野十郎左衛門尉宗次[1](粟野喜左衛門尉)の子で、出羽国二色根城主[2](現・山形県南陽市)。

当初は、伊達氏第17代当主・伊達政宗の家臣であり[3]伊達小次郎の傳役)、罪を犯し、死罪に処せられることを知って逃亡[4][5]。京都に出奔。尾張国羽柴秀吉に仕えた。勇敢な働きによる軍功をあげて知行1万石を与えられた[6]。すぐに3万石を領するようになり[7]、秀吉より「秀」の一字を与えられ、粟野木工頭秀用と称した[8]。これを聞いた政宗は憤慨し、人を介して秀用を引き渡すように請うたが、秀吉は自分に仕えて功をあげて扶持を与えた者だからと拒否した[9]。政宗は敢えてそれ以上求めず、秀用は益々忠勤するようになった。

天正18年(1590年)における秀吉による天下統一の後、その功により10万石を加増され、伊予国征木城主(現・愛媛県伊予郡松前町)13万石として伊予に入部し、従四位下として近侍した[10]。その後、関白秀次に転属、その重臣として2万石を加増され、都合15万石を領するに至る[11]

文禄4年(1595年)の秀次事件に連座して、京の三条河原にて斬首、または大雲院に入って秀次の無罪を訴えて自害した。この点、秀用の最期に関して、秀次事件に連座して自害したとされることが多いが、市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』には、「石田三成によって虚偽の内容を(秀吉に)告げられ、おとしめられた結果、秀用も謀反を企てたとされ、京の東山で自害した」とある[12]。戒名は真光院殿秀明大居士[13]。この秀次事件に関し、政宗も秀用との種々の関連性から関与を疑われ、秀吉に対し、釈明に追われることとなった。

なお、『米沢事跡考』によれば、秀用には妻子がなかったと推定されるも、粟野家自体は断絶していない。

墓所

京都市中京区にある浄土宗西山禅林寺派慈舟山瑞泉寺

令和6年(2024年5月5日、瑞泉寺にて、秀次、一族及び家臣の430回忌法要が執り行われた[14]

関連作品

小説

テレビドラマ

登場作品

脚注

  1. ^ 市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、野中森)には、「中納言山蔭十二世孫粟野次郎藤原義廣の後裔粟野十郎左衞門尉宗次(木工頭父)」と記されている。
  2. ^ 山形おきたま観光協議会HP参照。
  3. ^ 市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)には、秀用に関連して「粟野氏ハ伊達の親族なれとも古(いにしえ)より家臣為り」「美濃守(みののかみ)正宗の近侍なり」とある。
  4. ^ 上田正昭津田秀夫永原慶二藤井松一藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 67頁。
  5. ^ 市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)によれば、「故有(ゆえあり)て勘気(かんき)を蒙(こうむ)り米沢北条を立退き」とのみあり、出奔の真の理由即ち、勘気を蒙ったとされる理由は示されておらず、より正確な出奔理由は他の文献等にあたる必要がある。
  6. ^ 「羽柴秀吉に仕へ一万石の采地(さいち)をたまふ」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)
  7. ^ 「程なく三万石を領す」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)
  8. ^ 「則(すなわち)秀一字を賜い粟野杢頭(もくのかみ)秀用と号す」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)なお、秀用と称するようになった時期について、『米沢事跡考』では、3万石を領した時期と重なる。
  9. ^ 「正宗聞憤(ききいきどお・ききて、いきどお)り秀用を返し賜(たまう)へきよし申(もうし)おくる其(そ)の頃秀吉ハ羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)とて播州姫路の城主なりしか彼の功ありと以(もって)て返し至(いた)ハす」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44、二色根壘)
  10. ^ 「秀吉既に天下の主将となり十万石の加増をたまわり伊豫(いよ)征木(まさき)の城主従四位下(じゅしいのげ)侍従わされ?十三万石にて豫州に入部せり」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号44-45、二色根壘)
  11. ^ 「其後(そのご)関白秀次に仕へ加増ありて都合拾五(じゅうご)万石領す」市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号45、二色根壘)
  12. ^ 市立米沢図書館所蔵『米沢事跡考』(コマ番号45、二色根壘)には、「文禄四年秀次生害(しょうがい)」に続けて「石田三成讒言(ざんげん)によりて秀用も逆意せしとて洛(らく)の東山にて生害」とある。
  13. ^ 大日本人名辞書刊行会の『大日本人名辞書』にある「大雄誓義」は雀部重政のもので誤記。正しくは、「真光院殿秀明大居士」である。
  14. ^ 慈舟山瑞泉寺HP参照。

出典

関連項目

外部リンク




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