三河岡崎時代
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧し、諸大名の配置換えを行った。この結果、徳川家康は関東に転封された。また織田信雄は下野国烏山2万石に減封された。その結果、空いた尾張国には豊臣秀次が入った。小田原征伐でも秀次軍として活躍した吉政は三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。尾張堤普請には惣奉行に命じられ、資材の調達にも関わっていた。 文禄4年(1595年)、秀次は自害させられ、木村重茲、前野景定、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直之ら10名が賜死となり、そのほかにも多くの家臣が処分を受けたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。その際、石田三成が関与したかどうかは不明である。ただし、関白殿一老であった吉政に対しては、切腹を勧める者もいた。 結局、吉政には処分はなく、「秀次によく諌言をした」ということで2万8,358石3斗の加増、文禄5年(1596年)に更に1万4,252石6斗加増され、三河国岡崎城主、10万石の大名となった。 吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。そして城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造した。また、西側の低湿地の埋め立てを行った。さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。
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