三河岩瀬氏の末裔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 16:33 UTC 版)
室町・戦国期の岩瀬氏の惣領家は、家康の関東移封に随従せずに宝飯郡千両村の郷士となり、明治を迎えている。 大塚城主・岩瀬氏俊の弟・和泉守入道善性が牛久保城主・牧野氏に付属したのが、徳川幕臣・岩瀬氏の祖である(相模国小田原藩重臣・岩瀬家文書、三河国古文書「大塚邨誌」岩瀬系譜など)。この家系の岩瀬氏は吉左衛門を通称として、家康に服属後もしばらくは牧野氏の傘下にあった。『寛政重修諸家譜』によると、永禄7年(1564年)に岩瀬氏は岡崎で家康に謁見して直臣に列したが、その後、当主は2代にわたり戦場で討ち死にしている。岩瀬氏が徳川・松平の家臣となったのは、清康以来説、永禄7年説、天正18年(1590年)説の3つがある。 江戸時代には、はじめ岩瀬吉左衛門家から、各300俵で分家として分出された幕臣(旗本)の末家が2つあった。忠震は分家の出身である。 また、幕臣岩瀬氏の同族異流として、相模国小田原藩主大久保氏10万石の1,000石級の重臣となった、吉右衛門を通称する岩瀬氏がある。幕末に小田原藩の番頭席から家老職に抜擢された岩瀬大江進は、官軍の軍監を殺した責任をとるため切腹した。
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