天下統一
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天下統一(てんかとういつ[注釈 1])とは、応仁の乱以後の戦国乱世を終息させ、織田・豊臣の二氏によって推進された事象である[2]。
概要
古代中国の概念から来ており、天子が統治すべき地域を天下と呼んだ[要出典]。紀元前221年に始皇帝が中国史上初めて天下統一を成し遂げる。中国において過去に天下を統一した王朝は、周、秦、漢、西晋、隋、唐、元、明、清である。
日本の歴史においては、主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本全土(ただし琉球と蝦夷地の大半を除く)を一人の権力者の支配下に置き、統一することを指す。日本でも古代から用いられた。中世以降には神国観が広まり、武家政権を正当化する論理となり、最高権力者は「天下人」と呼ばれた。
室町・戦国時代に、「天下」は天皇皇権を擁する室町幕府の征夷大将軍が管轄した京都とその周辺地域を意味し、天下人たる室町将軍は地方大名を従属・統制下に置いて、紛争などを調停する役割を担っていた。
尾張国の織田信長は将軍足利義昭を擁し、間接的に天下人としての役割を担って統一事業を推進し(天下布武)、元亀4年(1573年)には将軍義昭を京都から追放し、天下人の地位を自身が継承することで統一政策を進めた。
その信長が本能寺の変で自害すると、信長の家臣であった豊臣秀吉が継承者として天下人の地位に至り、天正18年(1590年)に日本統一政策を成し遂げた。「天下」の本来の意味には、支配地域の境界は無く、秀吉は日本統一後に明の征服を中核とした東アジアの統一を企画し、文禄元年(1592年)から朝鮮に出兵するが(文禄・慶長の役)、慶長3年(1598年)に死去したことで途中終了した。
その後、関ヶ原の戦いを経て「天下」主催者の地位が江戸幕府の征夷大将軍職を世襲した徳川将軍家に継承されると、「天下」は日本列島に限る意味で用いられた。
天下統一を考える上での注意点は、現在の日本における「天下統一」のイメージは、歴史シミュレーションゲームなどの影響で「日本全国の全ての戦国大名が天下統一の目標の下、戦い合っていた。」というものであるが、近年の日本史研究においては、このイメージは必ずしも支持されない。比較的正しくは、『ごく一部の大名(例:織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が天皇や将軍の権威を用いる形の統一権力の確立を図った』と言った方が好ましいとされる[3]。
桶狭間の戦いにおいて今川氏が京への上洛を図ったとされているが、単に尾張を切り取る名目の出兵だったとされている。
また上杉氏の関東管領自称は、関東における室町幕府の鎌倉府の権威を借りた関東支配を目指していたとされる。武田信玄は、天下を取ろうとしたという形跡や痕跡などの史料に乏しいため、可能性はかなり低いとされている。
そして九州では、大友氏などが京や畿内よりも、大陸(中国)や欧州との関わりを重視する政治的ベクトルがあった可能性も指摘されているため、結論として、一概に当時の戦国大名の全てが天下統一を目指していたとする歴史観は非常に整合性が取れず、疑問が多く残る問題である。
脚注
注釈
出典
- ^ 駿河台大学 大河ドラマ「真田丸」ワンポイント解説 21
- ^ 日本大百科全書「天下統一」
- ^ “織豊政権の全国統一過程と東国社会”. Scholar. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
関連項目
天下統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:08 UTC 版)
司馬炎は王濬を都督益梁二州諸軍事に任命し、王濬と唐彬は継続して東方へ軍隊を進め、巴丘を攻略し、また胡奮と王戎には共に、夏口・武昌から長江を下り建業を攻撃するよう命令した。また、別動隊として杜預は南下し、零陵・桂陽・衡陽を占領した。王濬はこのとき、命令に従い夏口を攻略し、その後、王戎とともに武昌を奪取したため、晋軍の主力は長江の上流地域を完全に制圧した。 3月、王濬軍は三山に達した。孫晧は張象に軍を率いさせ抵抗を試みたが、呉の将兵に既に戦意はなく、旗を振り晋軍に投降した。このため孫晧は、さらに陶濬に2万の軍を率いさせ抵抗しようとしたが、その兵たちも出撃前に殆どが逃亡した。ここに至り、呉には守備する将兵がいなくなってしまい、各方面から進撃した晋軍は建業に到達した。孫晧は薛瑩・胡沖の計略により、投降する旨の書を持った使者を王濬・司馬伷・王渾に派遣し、離間策を試みたが徒労に終わった。3月15日、孫晧は片肌を脱いで後ろ手に縛らせた格好(肉袒面縛)で投降、王濬は捷報を上表した。 呉の滅亡により、後漢末期から続いていた群雄割拠・三国鼎立の時代は終わり、中国はふたたび統一国家となった。 晋の勝利の情報が司馬炎に届くと、司馬炎は涙を流して盃を取り交わし、「これは羊太傅(羊祜)の成功なり、惜しむらくは、彼が自分自身で見ることができなかったことだ(此羊太傅之功也、惜其不親見之耳)」と言った。また、呉から晋に投降して驃騎将軍に任命されていた孫秀は、朝廷から帰る時に長江がある南の方向を向き、「昔、討逆将軍(孫策)が壮年時代に一校尉から呉を作り上げた。しかし、今、孫晧が降伏することで江南を捨てる!悠悠なるかな蒼天、孫晧は何と言う暗君か(昔討逆壮年、以一校尉創立基業;今孫晧挙江南而棄之!悠悠蒼天,此何人哉!)」と泣きながら言った。 1985年、南京市(ほぼ建業に相当)で「大歳庚子晋平呉天下大平」と刻印された墓の磚が発掘された。西晋の統一から間も無い時期に作られたと推定されている。
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