呉の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 04:49 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動呉の滅亡(ごのめつぼう)
![]() |
このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。 |
呉の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)
冬、晋が呉に侵攻してきた。交州に向かっていた陶濬の軍は武昌に留まった。 天紀4年(280年)春、中山王・代王など11の王を立てて、大赦を実行した。晋の侵攻軍には各地で大敗し、張悌ら多くの者が戦死した。殿中の親近の者数百人が、孫晧の寵臣の岑昏を殺すことを願い出てきた。孫晧はそれを止めることはできなかった。武昌から建業に戻った陶濬は最後の抵抗を願い出てきたが、出撃の前日に兵士が皆逃亡してしまった。晋軍が迫っている中、孫晧は光禄勲の薛瑩と中書令の胡沖の勧めで晋への降伏を決め、王濬・司馬伷・王渾のそれぞれに降伏の書簡を送った。滅亡の直前になって、孫晧は母の弟の何植と群臣達それぞれに手紙を送り、心境を語ったという。 真っ先に建業にたどり着いた王濬を、孫晧は自らを縛って棺を持参して出迎えたが、王濬は縄をほどき棺を焼き捨てて孫晧を本陣に招いて面会した。孫晧から印綬を受け取っていた司馬伷は孫晧の身柄を自分の部下により晋の都に護送させた。孫晧は一族を引き連れて西方に向かい、太康元年(280年)5月1日に都に到達した。4月4日、晋の武帝(司馬炎)は詔勅を出し、孫晧を帰命侯に封じた。太子であった孫瑾は中郎に任命され、子の内で王に封じられていたものについては郎中に任命した。 太康5年(284年)12月、孫晧は洛陽で死去した。42歳であった。河南県邙山において葬られた。滕皇后は個人的に哀悼の意を書いた、その内容は非常に悲しい哀愁に満ちたものであった。 孫氏一族はその後も、西晋に仕え続けたが、以前に西晋へ亡命した孫秀は伏波将軍に降格され、孫楷は度遼将軍に降格された。この後の西晋の末年でも活躍した。孫晧の子の孫充は、八王の乱に際して反乱軍から呉王に祭り上げられた後に殺された。同族の孫拯は陸機の下で司馬に任じられたが、陸機の冤罪を訴え続けたため、陸機とともに三族皆殺しとなった。孫恵は司馬冏・司馬穎・司馬越に仕え、永嘉の乱に懐帝を皇帝に擁立したため、県公に封ぜられた。東晋の時代では、孫晧の子の孫璠は東晋の元帝に対して謀反を起こしたが、鎮圧され殺された。一族の孫晷も地元の名士として知られていた。 呉の滅亡後、人民は呉を懐かしむ一方で、西晋に憎しみを抱くようになる。当時の俚諺には「宮門柱 且莫朽 呉当複 在三十年後(皇居の柱よ、決して朽ちないでください。呉は三十年後に復興します)」「中国当敗呉当複(中原はまもなく滅ぶが、呉は復興する)」というものがあった。その俚諺の通り、中原王朝としての西晋は十余年後に滅亡した。
※この「呉の滅亡」の解説は、「孫皓」の解説の一部です。
「呉の滅亡」を含む「孫皓」の記事については、「孫皓」の概要を参照ください。
- 呉の滅亡のページへのリンク