呉の重臣へ
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黄龍元年(229年)、衛将軍・左護軍・徐州牧に任命された。さらに孫権の娘であった孫魯班を与えられ、その娘婿になっている。彼女との間に全呉を儲けている。全琮の待遇は、張昭や劉基の遺族と同等であったという(「劉繇伝」)。 黄龍2年(230年)、孫権は衛温と諸葛直に命じ、珠厓・夷州に軍を進め住民を連行させようとした。全琮は、異域の土地の風土は毒気を含み、疫病が発生して伝染する恐れがあり、多くの利益を求めることはできないと諌めた。孫権は、この意見を聞かなかったので、軍を送って一年経つと、士卒たちの中で疫病により死者が九割にも達し、孫権はこれを後悔した。 この年、魏から隠蕃が間諜として呉に投降し、呉の大臣を離間させ謀反に導こうと計画し、ひとかどの人物たちと親交を結び、全琮をはじめとした多くの人物が隠蕃に心を寄せて尊重した。しかし謀反の計画が発覚して、隠蕃は逃亡しようとして失敗し、逮捕されて陰謀に加わった仲間について尋問されたが、隠蕃は何も答えないまま処刑された。 また、孫権が子の孫登に軍を率いさせ出征させようとした事があった。群臣達が誰もこれを諌めようとしなかったが、全琮だけは密かに孫権に諫言した。孫権が即座に孫登に引き返させると、人々は全琮を国家の節義を守った者として称賛したという。 嘉禾2年(233年)、歩兵と騎兵5万を率いて六安を討伐した。逃走した六安の住民を捕らえようとする諸将を戒めた。 全琮は朱桓と作戦をめぐって口論となった。全琮が、孫権の命令で作戦に参与していた胡綜に責任を擦り付けたところ、朱桓の怒りは胡綜に向けられ、この怒りにより帳士が殺された。朱桓も一時孫権の下に召喚される事件となった。 赤烏2年(239年)、諸葛瑾と歩騭らが中心となり、周瑜の子の周胤を復帰させようとする動きがあった。全琮が朱然とともにこれに同調すると孫権の心も動いたが、周胤が既に死去した。全琮はなおも、周瑜の従兄弟の周峻の子である周護という人物を推挙し、周護が孫権の意に沿わない人物であったため、これも実現しなかった。 赤烏4年(241年)、全琮は大都督に昇進した。同年、魏の揚州の拠点である寿春に侵攻し、芍陂の堤防を決壊させ、兵糧庫を焼き住民を捕虜にした。この戦いは同時に荊州方面において、朱然らに魏の樊城を包囲させ、諸葛瑾らに柤中を占領させるという大規模な作戦であったが、蜀漢の協力も得られず、全琮らは魏の王淩との会戦の中、中郎将の秦晃と一緒に千余人を斬るという戦果を挙げた。しかし孫礼と王淩等が秦晃以下十数将校を斬り、秦晃軍を攻め落とした。魏軍の将兵も大半が死傷してしまい、その戦地へ駐屯した。4月、全琮達は既に敗走したものの、張休・顧承(顧邵の子)・顧譚等がなおも奮戦して敵を押し止めた。5月、皇太子の孫登が死去すると、戦の末に全緒と全端は王凌等を反撃して破り、魏軍を退却させた。翌6月に呉軍は総撤退した(芍陂の役)。 ところが、戦後の恩賞は張休・顧承に厚く、全氏一族に薄かった。張休・顧譚・顧承(顧邵の子)と、全端(全琮の兄の子)ら全氏一族は、先の芍陂の役の恩賞を巡り対立した。全寄と一緒に顧譚らの事を孫権に弾劾し、交州への流罪に追い込んだという。
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