呉の重臣へとは? わかりやすく解説

呉の重臣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:35 UTC 版)

全琮」の記事における「呉の重臣へ」の解説

黄龍元年229年)、衛将軍・左護軍徐州牧に任命された。さらに孫権の娘であった孫魯班与えられ、その娘婿になっている。彼女との間に全呉を儲けている。全琮待遇は、張昭劉基遺族同等であったという(「劉繇伝」)。 黄龍2年230年)、孫権衛温諸葛直命じ、珠厓・夷州に軍を進め住民連行させようとした。全琮は、異域土地風土毒気含み疫病発生して伝染する恐れがあり、多く利益求めることはできない諌めた孫権は、この意見を聞かなかったので、軍を送って一年経つと、士卒たちの中で疫病により死者が九割にも達し孫権はこれを後悔したこの年、魏から隠蕃間諜として呉に投降し、呉の大臣離間させ謀反導こう計画しひとかど人物たちと親交を結び、全琮をはじめとした多く人物隠蕃心を寄せて尊重した。しかし謀反計画発覚して隠蕃逃亡しようとして失敗し逮捕され陰謀加わった仲間について尋問されたが、隠蕃は何も答えないまま処刑された。 また、孫権が子の孫登に軍を率いさせ出征させようとした事があった。群臣達が誰もこれを諌めよとしなかったが、全琮だけは密かに孫権諫言した。孫権即座に孫登に引き返させると、人々全琮国家節義守った者として称賛したという。 嘉禾2年233年)、歩兵騎兵5万率いて六安討伐した。逃走した六安住民捕らえようとする諸将戒めた全琮朱桓作戦めぐって口論となった全琮が、孫権命令作戦参与していた胡綜責任擦り付けたところ、朱桓怒り胡綜向けられ、この怒りにより帳士が殺された。朱桓一時孫権の下に召喚される事件となった赤烏2年239年)、諸葛瑾歩騭らが中心となり、周瑜の子周胤復帰させようとする動きがあった。全琮朱然とともにこれに同調する孫権の心も動いたが、周胤が既に死去した全琮はなおも、周瑜従兄弟周峻の子である周護という人物推挙し周護孫権の意に沿わない人物であったため、これも実現しなかった。 赤烏4年241年)、全琮大都督昇進した同年、魏の揚州拠点である寿春侵攻し、芍陂の堤防決壊させ、兵糧庫焼き住民捕虜にした。この戦い同時に荊州方面において、朱然らに魏の樊城包囲させ、諸葛瑾らに柤中を占領させるという大規模な作戦であったが、蜀漢協力得られず、全琮らは魏の王淩との会戦の中、中郎将の秦晃と一緒に余人斬るという戦果挙げた。しかし孫礼王淩等が秦晃以下十数将校を斬り、秦晃軍を攻め落とした魏軍将兵大半死傷してしまい、その戦地へ駐屯した。4月全琮達は既に敗走したものの、張休顧承顧邵の子)・顧譚等がなおも奮戦して敵を押し止めた。5月皇太子孫登死去すると、戦の末に全緒全端王凌等を反撃して破り魏軍退却させた。翌6月呉軍は総撤退した芍陂の役)。 ところが、戦後恩賞張休顧承厚く、全氏一族薄かった張休顧譚顧承顧邵の子)と、全端全琮の兄の子)ら全氏一族は、先の芍陂の役恩賞巡り対立した全寄一緒に顧譚らの事を孫権弾劾し交州への流罪追い込んだという。

※この「呉の重臣へ」の解説は、「全琮」の解説の一部です。
「呉の重臣へ」を含む「全琮」の記事については、「全琮」の概要を参照ください。

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