荊州方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:48 UTC 版)
一方、歩騭・諸葛瑾は魏呉の緩衝地域である柤中に駐留し、呉軍の進路の確保を行った。また、樊城に軍を進めた朱然は城を包囲し、呂拠や朱異に命じて樊城の外郭を破壊した。魏の荊州刺史胡質はすぐさま援軍を率いて樊城に赴き呉軍と対峙した。このとき胡質の配下は、呉軍の勢いが盛んである事を危惧し、機を待ってから攻勢をかけるべきであると進言したが、胡質は言った。「樊城は城壁が低く兵力にも乏しい。早急に救援しなければ危険である」と。呉軍との間には兵力差が大きかった為、包囲を解く事はできなかったものの、城内の守備軍は援軍到来の報に大いに士気を高めた。都督荊豫二州諸軍事の夏侯儒も樊城の救援に向かい、迎撃のため鄧塞に駐屯したものの、兵が少なかったため樊城近くで鳴り物を鳴らすだけで交戦はしなかった。 5月、魏軍は苦境に苛まれ、一カ月以上を経っても包囲を解く事はできなかった。呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は兵を起こし樊城の援軍に向かった。このとき呉国内では、皇太子である孫登が死去するという大事件が起こっており、また柤中に駐屯している諸葛瑾も病気を患い軍の指揮がまともに出来ない状況にあった。6月、司馬懿が到着する前に、戦果を挙げた朱然は樊城から無事に撤退した。それに伴い軍の進路を確保していた歩騭、敵の資源を奪い取った諸葛瑾も撤兵をした。 司馬懿は朝廷の反対を押し切り、自ら進み出て軽騎兵を率いて救援に赴いた。朱然は司馬懿軍の迎撃に当たったが、一進一退の攻防を繰り返し戦線は膠着化する。朱然は夜中に撤退を開始し魏軍に気づかれないよう慎重に軍を後退させたが、司馬懿はその動きを読んでおり、夏侯儒と胡質らに追撃を命じた。朱然軍は三州口まで退いたところで魏軍の追撃を受け、1万人以上の犠牲者を出して船艦物資の多くを失ったが、かろうじて退却する事ができた。
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