荊州を統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 14:10 UTC 版)
当時、兵難が相次いでいた事により荊州の官員は多数欠員となっていたので、劉弘はこれを補充する様要請すると、朝廷により認められた。劉弘は徳による政治を根幹とし、才能に応じて官職を授けたので、人々はこれを大いに賞賛した。また、農業・養蚕を推奨して刑罰を緩和し、また賦役を省いたので、百姓は従来の1年分の税で数年分を賄うことが出来、皆これを喜んだ。 また、劉弘は上表し、張昌の乱平定に貢献した者や荊州の名士を取り立てる様要請し、皮初を襄陽郡太守に、陶侃を荊州府行司馬に、蒯恒を山都令に、漂郷令虞潭を醴陵令に、南郡廉吏仇勃を帰郷令に、尚書令史郭貞を信陵令に任じる様、申し述べた。朝廷は詔を下し、襄陽は名郡であった事から皮初を太守とするのは認めず、前の東平郡太守夏侯陟を襄陽郡太守に任じ、その他の任官については劉弘の意見に従った。夏侯陟は劉弘の娘婿に当たったが、劉弘は配下の者に文章を下して「天下を統率する者というのは、天下と心を一つにすべきである。一国を教え導く者は、一国を任せられる者でなくてはならない。もし必ず親族を用いるべきであるとするならば、荊州10郡は10人の婿がいれば政治を安定させることができるというのか」と述べ、この措置に疑問を示した。さらに、朝廷に上表して改めて皮初の勲功を申し述べたので、朝廷も遂にこれを認めた。 304年1月、蜀の地では巴氐族の李雄が乱を為しており、益州刺史羅尚はこれに度々敗れた。その為、羅尚は使者を派遣して劉弘に危機的状況にある事を伝え、軍糧を供給するよう求めた。劉弘は返書してこれに応じようとしたが、州府主簿は益州まで運搬するには道が遠く、また荊州の物資も乏しい事から、零陵の米五千斛だけを羅尚に送ることを提案した。これに対し劉弘は「諸君はこの事を良く考えていない。天下は1つの家と同様であり、互いに区別など無いのだ。今、我がこれを助けることは、すなわち西顧の憂いを無くすことにつながるのだ」と言い、零陵の米三万斛を羅尚に与えた。羅尚はこれを頼りにとし、抗戦を継続する事が出来た。また、後に劉弘は治中何松に命じ、建平・宜都・襄陽の3郡の兵を与えて巴東を守らせ、羅尚の援護をさせた。 巴蜀の動乱により、当時の荊州には10万戸余りの民が流入してきており、長旅により困窮して多くが盗賊に身を落としていた。劉弘は彼らに田種と糧食を与え、才能に応じて官吏に登用した。 この頃、朝廷は張昌平定の功績を称え、劉弘を侍中・鎮南大将軍に任じ、開府儀同三司の特権を与えた。また、次男が県侯に封じられたが、劉弘は上書してこれを固辞し、認められた。
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