荊州へ復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)
太寧3年(325年)、王敦の乱が平定されると、明帝は同じ過ちを繰り返さない為、一方面で庾亮を重用し、郗鑒らには王導の権力を抑え込ませた。また、江東の士族を抜擢し、中原と呉の士族の平衡を保った。さらに、荊州・湘州を始め四州の職務を改選し、互いに牽制させた。5月、陶侃は都督荊雍益梁四州諸軍事・領護南蛮校尉・征西大将軍・荊州刺史に転任し、その他の職務は元のままであった。荊楚の民でこれを喜ばない者はいなかった。 陶侃は荊州統治において、社会秩序の安定と農業生産の発展を重視した。王敦の乱平定後、荊州は大飢饉となり、庶民の多くは餓死した。陶侃は秋の収穫の時期に米を買い込み、凶作になると値引きして売り出して民を救済した。官民は大いに悦び、みな彼に頼って命を繋いだ。羊祜・劉弘も荊州統治時代は農耕の発展に努めて大いに人心を得ていた。陶侃が大いに慕われたのは、彼らの影響も大きかった。その他にも、地盤の強化に努め、需要の増加に応じて荊州は大いに発展を遂げた。 明帝が病死して当時5歳の成帝が即位すると、庾亮が外戚として政治を補佐した。彼は強兵を握る陶侃を強く警戒し、石頭城の防衛を強化すると共に温嶠を江州刺史に任じた。この時陶侃は、自らが政権の補佐を任されなかったことを非常に残念に思ったという。
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