荊州を預かる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:14 UTC 版)
劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。 建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという(『三国志』蜀志「諸葛亮伝」)。 同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北し漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。魯粛、諸葛亮を介して孫権が劉備に援軍を出すと、劉備・孫権軍は赤壁で曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を諦めて撤退した(赤壁の戦い)。 建安14年(209年)、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖したが、李通が手勢を率いてこれを攻撃し曹仁を救い出した。また、漢津で徐晃と満寵の攻撃を受けた(『三国志』魏志「徐晃伝」)。(『三国志』魏志「李通伝」)。劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。 劉備が益州に入ると(劉備の入蜀)、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。後に劉備が益州を攻撃すると諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州の留守は関羽が預かることとなった。この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥まで進出して対峙してたがその攻撃をうけて蘇非と共に逃走している。このとき文聘が関羽の輜重、軍船を焼いている(『三国志』蜀志「先主伝」、魏志「楽進伝」「文聘伝」)。荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が降ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している(『三国志』蜀志「楊儀伝」)。 劉備が益州を征服すると関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され(『三国志』蜀志「張飛伝」)、関羽は荊州の軍事総督に任命された。しかし同僚の糜芳・士仁とは関羽が両者を軽んじていたことから隙があった。また州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは親交を結ぶことはなかった (『季漢輔臣賛』、『三国志』呉志「潘濬伝」)。
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