南郡攻防戦とは? わかりやすく解説

南郡攻防戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:35 UTC 版)

赤壁の戦い」の記事における「南郡攻防戦」の解説

208年冬、南郡進撃した周瑜軍は、曹仁長江挟んで対峙した。甘寧夷陵城を奪取することを提案し周瑜はこの提案採用甘寧数百人の部隊夷陵城を奪取した曹仁甘寧対し即座に5000規模部隊派遣し夷陵包囲させた。このとき甘寧降兵あわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜呂蒙献策をいれて、凌統部隊守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍攻撃して破り夷陵を完全確保することに成功したその後渡河たばかり周瑜先鋒部隊数千人)に陥いれられ配下の将・牛金を、曹仁は僅か数十人で包囲網突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍真に天人なり」と感嘆した双方軍隊対峙始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜流れ矢受けて重傷負った曹仁周瑜重傷知り周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜重傷のまま戦に臨み曹仁攻撃退けた交戦開始から一年越え曹仁周瑜らに包囲されたため窮地陥った劉備張飛千人預けて周瑜指揮下に入れ一方で周瑜から二千人を借り受け軍勢互いに送りあった上で協調して曹仁を討つことを提案した周瑜はこれに同意し自軍から二千の兵を選び劉備預けたその間南部の4郡の太守劉備攻撃され戦死降伏し、また関羽にも北道封鎖された。李通満寵らが関羽攻撃し関羽軍に突入し戦いつつ前進し曹仁軍を救出した結局は曹仁らは江陵捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵占拠し南郡平定した。 曹操揚州における陳蘭梅成雷緒らの反乱鎮圧夏侯淵張遼于禁張郃臧覇派遣する一方で荊州に対して劉巴単身派遣するだけで効果的な手を打てず、一度確保した荊州南郡以南全て失った。しかし襄陽郊外青泥まで進出していた関羽蘇非二人楽進攻撃し撤退させ、周辺異民族をも降伏させたため、襄陽一帯だけは確保することができた。

※この「南郡攻防戦」の解説は、「赤壁の戦い」の解説の一部です。
「南郡攻防戦」を含む「赤壁の戦い」の記事については、「赤壁の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南郡攻防戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南郡攻防戦」の関連用語

南郡攻防戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南郡攻防戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの赤壁の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS