南郡攻防戦
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208年冬、南郡に進撃した周瑜軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に5000人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。 その後、渡河したばかりの周瑜の先鋒部隊(数千人)に陥いれられた配下の将・牛金を、曹仁は僅か数十人で包囲網に突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍は真に天人なり」と感嘆した。双方の軍隊が対峙を始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。曹仁は周瑜重傷を知り、周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退けた。交戦開始から一年を越え、曹仁は周瑜らに包囲されたため窮地に陥った。劉備は張飛に千人を預けて周瑜の指揮下に入れ、一方で周瑜から二千人を借り受け、軍勢を互いに送りあった上で協調して曹仁を討つことを提案した。周瑜はこれに同意し、自軍から二千の兵を選び劉備に預けた。その間、南部の4郡の太守は劉備に攻撃され戦死、降伏し、また関羽にも北道を封鎖された。李通・満寵らが関羽を攻撃し、関羽軍に突入し、戦いつつ前進し、曹仁軍を救出した。結局は曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。 曹操は揚州における陳蘭・梅成・雷緒らの反乱鎮圧に夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇を派遣する一方で、荊州に対しては劉巴を単身派遣するだけで効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。しかし襄陽郊外の青泥まで進出していた関羽と蘇非の二人を楽進が攻撃し撤退させ、周辺の異民族をも降伏させたため、襄陽一帯だけは確保することができた。
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