南部での戦い
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1877年4月14日、清軍は数箇月の休息の後、天山南路に向けて進軍を開始した。劉錦棠軍はウルムチを南下し、16日には達坂城を包囲した。18日に城外に砲台を築き、翌日から攻撃を開始した。ヤクブ・ベク軍は突破を図ったが失敗し、投降した。 同時に張曜軍と徐占彪軍がトゥルファンに迫った。4月26日、劉錦棠軍はトクスンを占領した。ヤクブ・ベクはカラシャールに逃れ、子にコルラを守らせた。その後、張曜軍と徐占彪軍は羅長祐の湘軍と協力してトゥルファンを陥れた。この時、天山南路ではヤクブ・ベクの統治への不満が増大しており、ヤクブ・ベクは大勢は去ったとして自殺した。毒殺されたとの説もある。ヤクブ・ベクの死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子のベク・クーリ・ベクが抵抗を継続した。 この時、李鴻章らの働きかけで、軍費がかかるので兵を休めさせよとの勅令が下ったが、左宗棠は戦争の継続を説いた。西太后は左宗棠の論に納得し、戦争は継続されることとなった。またこの頃露土戦争が発生しており、金順はこの機に乗じてイリ地方を奪取すべきと提案したが、左宗棠の採るところとはならなかった。 9月、清軍は西進を開始し、カラシャールとコルラの守備兵は戦わずにクチャに退いた。10月18日、劉錦棠軍はクチャを攻略し、白彦虎は西に逃れた。24日にはアクスを、26日にはウシュトゥルファンを占領し、東の4城を手中におさめた。さらに西のヤルカンド、イェンギサール、ホータン、カシュガルの守備軍も恐れて内部から崩壊を始めた。ヤクブ・ベク軍に降伏していた前カシュガル守備の何歩雲は機に乗じて、満州人と漢人数百人を率いて漢人居住地区を占拠した。劉錦棠はこれを聞いて前進を始め、12月下旬までに西の4城を陥落させた。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人である。戦闘は終結し、山中のキルギス族も清軍に服属した。こうしてイリを除く東トルキスタンは再び清の征服するところとなった。
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