南部での戦いとは? わかりやすく解説

南部での戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)

ヤクブ・ベクの乱」の記事における「南部での戦い」の解説

1877年4月14日、清軍は数箇月の休息の後、天山南路向けて進軍開始した劉錦棠軍はウルムチ南下し16日には達坂城包囲した18日城外砲台築き翌日から攻撃開始したヤクブ・ベク軍は突破図った失敗し投降した同時に張曜軍と徐占彪軍がトゥルファン迫った4月26日劉錦棠軍はトクスン占領したヤクブ・ベクカラシャール逃れ、子にコルラを守らせた。その後張曜軍と徐占彪軍は羅長祐の湘軍協力してトゥルファンを陥れた。この時、天山南路ではヤクブ・ベク統治への不満が増大しており、ヤクブ・ベク大勢去ったとして自殺した毒殺されたとの説もある。ヤクブ・ベク死後白彦虎ヤクブ・ベク長子のベク・クーリ・ベクが抵抗継続した。 この時、李鴻章らの働きかけで、軍費がかかるので兵を休めさせよとの勅令下ったが、左宗棠戦争の継続説いた西太后左宗棠の論に納得し戦争継続されることとなった。またこの頃露土戦争発生しており、金順この機に乗じてイリ地方奪取すべきと提案したが、左宗棠の採るところとはならなかった。 9月、清軍は西進開始しカラシャールコルラ守備兵戦わずクチャ退いた10月18日劉錦棠軍はクチャ攻略し白彦虎は西に逃れた24日にはアクスを、26日にはウシュトゥルファン占領し、東の4城を手中おさめた。さらに西のヤルカンドイェンギサールホータンカシュガル守備軍も恐れて内部から崩壊始めたヤクブ・ベク軍に降伏していた前カシュガル守備の何歩機に乗じて、満州人漢人数百人を率いて漢人居住地区占拠した劉錦棠はこれを聞いて前進始め12月下旬までに西の4城を陥落させた。ベク・クーリ・ベクと白彦虎ロシア逃れた。この時に白彦虎従った回民の子孫が現在のドンガン人である。戦闘終結し山中キルギス族も清軍に服属した。こうしてイリを除く東トルキスタンは再び清の征服するところとなった

※この「南部での戦い」の解説は、「ヤクブ・ベクの乱」の解説の一部です。
「南部での戦い」を含む「ヤクブ・ベクの乱」の記事については、「ヤクブ・ベクの乱」の概要を参照ください。

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