南部と北部での後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:44 UTC 版)
「バグラチオン作戦」の記事における「南部と北部での後退」の解説
1943年7月のクルスクの戦い後、主導権は赤軍にわたり、8月にハリコフ、11月にキエフを奪回した赤軍は、冬の泥濘季で攻勢は終息するだろうというドイツ軍側の期待を覆し、1943年末から1944年5月にかけて攻勢は続いた。まず、ウクライナでは、1944年1月28日にドニエプル川西岸のチェルカースィでの第1ウクライナ方面軍(ニコライ・ヴァトゥーチン大将)および第2ウクライナ方面軍(イワン・コーネフ元帥)が攻勢を開始し、ドイツXI軍団とXXXXII軍団の6万人をコルスンに包囲し、壊滅的打撃を与えた(コルスン包囲戦)。ドニエプル河流域より駆逐された南方軍集団(エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥)は、3月にカームヤネツィ=ポジーリシクィイでの第1装甲軍(ハンス=ヴァレンティーン・フーベ上級大将)が包囲された(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)。その後、第2SS装甲軍団などの協力を得て突破に成功したが、戦線はガリツィア地方にまで後退した。3月30日に、ヒトラーは、マンシュタインとクライストに休養を命じ、4月5日には、南方軍集団は北ウクライナ軍集団に改称され、ヴァルター・モーデル元帥が、後任に起用された。 A軍集団(エバルト・フォン・クライスト元帥)も、第3ウクライナ方面軍(ロディオン・マリノフスキー大将)に攻撃され、ブーク河を支えきれずベッサラビアまで後退した。4月5日には、A軍集団は南ウクライナ軍集団に改称され、クライストの後任には、フェルディナント・シェルナー歩兵大将が任命された。なお、クリミア半島に取り残された第17軍(エルヴィン・イェーネッケ上級大将)は大部分が海上からの脱出に失敗し、7万5千の将兵を失って5月13日にセヴァストポリは陥落した。 一方、北方では1月14日に、900日にわたり包囲されていたレニングラードの正面、ノヴゴロド付近のヴォルホフ川の両方向から攻勢が開始され、北方軍集団(ゲオルク・フォン・キュヒラー元帥)は、3月にナルヴァやプスコフのパンター線まで撤退して(ナルヴァの戦い)、レニングラードはようやく包囲を解かれた。その後、赤軍はエストニアへの圧迫を強めるとともに、フィンランドを戦争から脱落させるために、カレリア地峡およびラドガ湖北側の東カレリアからフィンランドへの攻撃に転じ、1940年のモスクワ講和条約で定められた国境線まで、フィンランド軍を押し戻した(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)。
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