南部での初期の活動
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「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「南部での初期の活動」の解説
ニューヨークを発したアーチボルド・キャンベル中佐指揮下の遠征軍3,500名は、1778年12月29日、抵抗を受けることなくジョージアのサバンナを占領した。これはイギリス軍にとって重要な意味を持った。1779年1月17日にセントオーガスティンから途中の前進基地を取りながら行軍してきたオーガスティン・プレボスト准将の部隊がキャンベル軍に合流するまでの間に、ジョージアの低地地方一帯はイギリス軍の支配下に入った。プレボストがジョージアにいる全軍の指揮を執り、キャンベルに1,000名の兵士を付けてオーガスタに派遣し、この町を支配し、ロイヤリストを徴兵しようとした。 サバンナ防衛軍の残りはサバンナから約12マイル (20 km) 上流のサウスカロライナのパリースバーグに後退し、そこで南部の大陸軍を指揮していたベンジャミン・リンカーン少将の軍隊と遭遇した。リンカーンはチャールストンからプレボストの軍隊を偵察し対抗する意図でその軍隊の大半を連れてきていた。2月初旬、プレボストは数百名の部隊をボーフォートに派遣し、恐らくはキャンベルの動きからリンカーンの注意を逸らせようとした。リンカーンはその部隊を排除するためにムールトリー将軍と300名の部隊を送ることで反応した。2月3日に起きたビューフォートの戦いはほとんど決着が着かず、両軍共にその基地に戻ることになった。 一方キャンベルは大きな抵抗も無くオーガスタを占領し、ロイヤリスト達が出て来始めた。2週間以上掛かって1,000名以上のロイヤリストを徴募している間に、1779年2月14日にはオーガスタからは50マイル (80 km) しか離れていないところであるケトルクリークの戦いで、アンドリュー・ピケンズ指揮下の愛国者民兵隊にかなりの数のロイヤリストが敗北するのを防げなかった。このことはその地域でイギリス軍がロイヤリストを守るためには限界があることを誰にも分からせることになった。キャンベルはその後突然オーガスタを去った。これはオーガスタから既に川の対岸にいた1,000名の民兵隊に、リンカーンが追加するために派遣したジョン・アッシュと1,000名以上のノースカロライナ民兵隊が到着したことに反応した結果だった。キャンベルはサバンナに戻る途中で、部隊の指揮権をプレボストの弟であるマーク・プレボストに渡した。マーク・プレボストは、イギリス軍を追って南に向かっていたアッシュの部隊に矛先を向け、3月3日のブライアクリークの戦いでその1,300名の部隊を急襲し、ほとんど全滅に近く追い込んだ。 4月までにリンカーンは大勢のサウスカロライナ民兵隊の増援を受け、チャールストンに着いたオランダ船から軍需物資の追加を受け取ったので、オーガスタに向かうことに決めた。オーガスティン・プレボストの動きを警戒するためにムールトリー将軍指揮下の1,000名をパリースバーグに残し、リンカーンは4月23日に北への行軍を開始した。この動きに反応したプレボストは4月29日に2,500名の部隊を率いてサバンナからパリースバーグに向かった。ムールトリーは戦うよりもチャールストンに後退する道を選び、プレボストは5月10日にはチャールストンから10マイル (16 km) 以内に近付いて初めて抵抗に会うようになった。2日後にプレボストは大陸軍の伝令を捕まえて、リンカーンがプレボスト軍の進行に驚き、チャールストン防衛のために急ぎオーガスタから戻ってきていることを知った。プレボストはチャールストンの南西にある島に後退し、その後退を遮蔽させるためにストノフェリー(今日のランタウルズ近く)で塹壕に入った後衛を残した。リンカーンはチャールストンに戻ると、大半が戦闘経験のない民兵ばかり約1,200名を率いてプレボストの後を追った。この部隊は6月20日のストノフェリーの戦いでイギリス軍に撃退された。プレボストの後衛部隊はその目的を果たし、数日後にはその基地を棄てた。
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