1944年1月
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1944年1月、ドイツ南方軍集団(司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン)とその配下である第8軍(司令官オットー・ヴェーラー)はウクライナのドニエプル川沿いに構築された防衛線、パンター=ヴォータン(Panther-Wotan)線へ後退していた。第XI軍団(司令官ヴィルヘルム・シュテンマーマン)と第XLII軍団(司令官テオバルト・リープ)の2個軍団と第8軍から派遣されたB軍団支隊は、約100kmにわたって構築されたソビエト赤軍の進出線に突出部を形成、中央の突出部はチェルカッシーの西、コルスンの町があるカニフのドニエプル川を保持していた。ソビエト赤軍のゲオルギー・ジューコフは、スターリングラード攻防戦で包囲したドイツ第6軍を殲滅したのと同様の戦術でドイツ第8軍を撃破できると考えた。ジューコフはソビエト赤軍最高司令部に第1ウクライナ方面軍と第2ウクライナ方面軍からの2個装甲部隊でドイツ軍を包囲、さらに二重の包囲を行い、内部の部隊を殲滅しつつも外部から救援に来る部隊を撃退する作戦を提案した。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、包囲を危惧したマンシュタインやその他の将校からの度重なる警告を受けたが、剥き出しとなっていた部隊を安全地帯へ撤退させることを拒否した。 コーネフはソビエト赤軍総司令部より受けた包囲作戦の命令を実行するため、1月15日、配下の指揮官たちと政治委員らを集め、司令部で会議を開いた。最初の攻撃は第2ウクライナ方面軍が担当、南東から第5航空軍の支援を受けた第5親衛戦車軍と共に第53軍、第4親衛軍が行い、途中、第52軍、第5親衛騎兵軍団、第2戦車軍が加わることになっていた。さらに、第1ウクライナ方面軍の第27軍、第40軍、第2航空軍の支援を受けた第6戦車軍らが北西より進撃することになっていた 。これらの部隊の多くは新たな人員の補充を受けた。また赤軍の計画には広範囲の偽装作戦が含まれ、ソ連当局はこれらも成功したと主張している。しかしドイツ第8軍の戦闘日誌は、偽装されたものではなく真の脅威にドイツ軍の参謀たちが関心を持っていたことを明確に示している。
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