1944年1月 テクリノの戦い
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「1944年1月 テクリノの戦い」の解説
1944年1月初旬、ソビエト赤軍はテクリノ(Teklino)の戦略的に重要な森を占領した。これによってSmilaおよびチェルカースィのドイツ軍部隊には分断される危険性が生じた。 1月11日から12日にかけて、第5SS装甲師団「ヴィーキング」所属のSS「ゲルマニア」連隊とSS義勇装甲擲弾兵大隊「ナルヴァ」(SS-Freiwilligen-Panzergrenadier Bataillon Narwa)は、テクリノの森に陣取るソビエト赤軍に対して3度に渡る攻撃を行った。しかし、いずれの攻撃も失敗に終わったため、今度は「ヴァロニェン」旅団に攻撃任務が委ねられた。ドイツ兵(とエストニア人義勇兵)の攻撃が失敗したその次に現れたワロン人義勇兵たちを見て、「ヴァロニェン」旅団の戦闘能力に疑問を抱いていた「ヴィーキング」師団のベテラン兵は集会で以下のような(「ヴァロニェン」の連中の攻撃は見世物同然という軽蔑交じりの)文書を回した。 「 Hier Zirkus Wallonien. Morgen Vorstellung ab 6 Uhr bis 8 Uhr. Eintritt frei(ヴァロニェンサーカス。明日の朝6時から8時まで公演。入場無料) 」 1944年1月14日午前6時、800発の事前準備砲撃が終了した後、「ヴァロニェン」旅団は2フィート(約60.9センチメートル)の雪が積もる野原からテクリノの森へ攻撃を開始した。ソビエト赤軍の激しい応射の中、「ヴァロニエン」旅団の4個中隊は森の西端へ到達した。しかし、森に入ってからの進軍速度は白兵戦や敵の待ち伏せ、巧みに偽装された防御陣地などによってたちまち低下した。ソビエト赤軍の増援が素早く対応したことで「ヴァロニェン」旅団の攻撃が阻まれると考えた旅団長リュシアン・リッペールSS少佐は、3つの機関銃班を敵の防衛線に浸透させ、ソビエト赤軍の増援ルートを遮断するよう命令した。 それから3日後、多数の死傷者を出しつつも「ヴァロニェン」旅団は(「ヴィーキング」師団の将兵でさえ達成できなかった)テクリノの森の占領に成功した。その2日後に「ヴァロニェン」旅団は「ナルヴァ」大隊と交代し、数日後にはテクリノの周辺区域が再びドイツ軍のものとなった。 しかし、テクリノにおけるドイツ軍のこの勝利にもかかわらず、ソビエト赤軍はコルスンでドイツ軍部隊を包囲していた。「ヴァロニェン」旅団と「ヴィーキング」師団が矢面に立って防衛を行う間、いくつかのソビエト赤軍戦車部隊はドイツ軍突出部に沿って進撃した。
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