1944年11月-1945年1月 台湾方面護衛とは? わかりやすく解説

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1944年11月-1945年1月 台湾方面護衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 09:13 UTC 版)

倉橋 (海防艦)」の記事における「1944年11月-1945年1月 台湾方面護衛」の解説

1944年昭和19年11月15日倉橋第一遊撃部隊作戦指揮解かれ第一海上護衛隊復帰した21日倉橋は単艦でシンガポール出発しミリ移動した同地シマ05船団11月18日シンガポール出港時7隻、24日ミリ出港時4隻)と合同し24日ミリ発。25日、米潜水艦ミンゴシマ05船団襲撃する陸軍傭船まにら丸被雷沈没したが、他の艦船29日マニラ到着した12月10日第一海上護衛隊第一護衛艦隊改編された。12月31日駆逐艦4隻(浜風磯風時雨旗風)と海防艦5隻(御蔵屋代倉橋満珠第13号)はヒ87船団部隊指揮官第七護衛船団司令官駒沢克己少将特務艦神威など約10隻)を護衛し門司出撃した。空母龍鳳特攻兵器桜花搭載し、第17駆逐隊浜風磯風)が護衛した途中船団部隊舟山島北東錨地退避した1945年昭和20年1月6日-7日ヒ87船団部隊台湾基隆港外で仮泊する。同7日午前1125分、米潜水艦ピクーダの雷撃により陸軍配当宗像丸が被雷して損傷したヒ87船団部隊台湾高雄先行し、第17駆逐隊司令宗像警戒指揮をとる倉橋宗像丸の護衛命じられ残留した。第17駆逐隊浜風磯風)は龍鳳基隆送り届ける反転し宗像丸および倉橋合流した宗像丸は3隻(浜風磯風倉橋)に護衛され基隆到着できた。その後浜風磯風船団部隊との合流急いで先行し倉橋高雄回航指示された。9日ヒ87船団部隊高雄到着したが、米軍機部隊第38任務部隊艦上機空襲をうける。台湾周辺艦船基地被害出た。 ここでヒ87船団再編おこなわれた磯風御蔵基隆移動し龍鳳と共に別の船団護衛して内地戻っていった。一方陸軍特殊船護衛していた海防艦干珠三宅能美)等がヒ87船団加わり1月10日高雄出発13日夕刻香港着。15日から16日にかけて香港港外空襲を受け、ヒ87船団部隊大打撃をうけた。倉橋至近多数受けて損傷戦死2名・負傷14名を出した20日倉橋はヒ87B船団護衛して香港出発した同船団を海南海峡まで護衛し、単艦反転し24日香港帰投24日から29日まで、香港修理を行う。29日、単艦基隆回航し、31日基隆着。

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