1944年11月-1945年1月 台湾方面護衛
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「倉橋 (海防艦)」の記事における「1944年11月-1945年1月 台湾方面護衛」の解説
1944年(昭和19年)11月15日、倉橋は第一遊撃部隊の作戦指揮を解かれて第一海上護衛隊に復帰した。21日、倉橋は単艦でシンガポールを出発し、ミリへ移動した。同地でシマ05船団(11月18日シンガポール出港時7隻、24日ミリ出港時4隻)と合同し、24日ミリ発。25日、米潜水艦ミンゴはシマ05船団を襲撃する。陸軍徴傭船まにら丸が被雷沈没したが、他の艦船は29日にマニラに到着した。 12月10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に改編された。12月31日、駆逐艦4隻(浜風、磯風、時雨、旗風)と海防艦5隻(御蔵、屋代、倉橋、満珠、第13号)はヒ87船団部隊(指揮官は第七護衛船団司令官駒沢克己少将、特務艦神威など約10隻)を護衛し、門司を出撃した。空母龍鳳は特攻兵器桜花を搭載し、第17駆逐隊(浜風、磯風)が護衛した。途中、船団部隊は舟山島北東錨地に退避した。 1945年(昭和20年)1月6日-7日、ヒ87船団部隊は台湾基隆港外で仮泊する。同7日午前11時25分、米潜水艦ピクーダの雷撃により陸軍配当船宗像丸が被雷して損傷した。ヒ87船団部隊は台湾高雄へ先行し、第17駆逐隊司令が宗像丸警戒の指揮をとる。倉橋は宗像丸の護衛を命じられて残留した。第17駆逐隊(浜風、磯風)は龍鳳を基隆に送り届けると反転し、宗像丸および倉橋と合流した。宗像丸は3隻(浜風、磯風、倉橋)に護衛され、基隆に到着できた。その後、浜風と磯風は船団部隊との合流を急いで先行し、倉橋は高雄回航を指示された。9日、ヒ87船団部隊は高雄に到着したが、米軍機動部隊(第38任務部隊)艦上機の空襲をうける。台湾周辺の艦船や基地に被害が出た。 ここでヒ87船団の再編がおこなわれた。磯風と御蔵は基隆へ移動し、龍鳳と共に別の船団を護衛して内地へ戻っていった。一方、陸軍特殊船を護衛していた海防艦(干珠、三宅、能美)等がヒ87船団に加わり、1月10日に高雄を出発、13日夕刻香港着。15日から16日にかけて香港港外で空襲を受け、ヒ87船団部隊は大打撃をうけた。倉橋は至近弾多数を受けて損傷、戦死2名・負傷14名を出した。20日、倉橋はヒ87B船団を護衛して香港を出発した。同船団を海南海峡まで護衛し、単艦反転し24日香港に帰投。24日から29日まで、香港で修理を行う。29日、単艦基隆へ回航し、31日基隆着。
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