1944年10月-1945年1月 第一海上護衛隊/第一護衛艦隊
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「能美 (海防艦)」の記事における「1944年10月-1945年1月 第一海上護衛隊/第一護衛艦隊」の解説
1944年(昭和19年)10月21日、能美は大湊警備府部隊より除かれ、宗谷防備部隊からの作戦指揮を解かれた。同21日付で、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入される。能美は内地~シンガポール間の護衛任務に従事することとなった。22日、門司へ回航のため、能美は大湊を出発する。24日、門司着。ヒ79船団を護衛することになった。 第五護衛船団司令官吉富説三少将(旗艦香椎)が指揮するヒ79船団部隊(練習巡洋艦香椎、海防艦鵜来、能美、第十七号海防艦、敷設艇新井埼、掃海艇21号、加入船舶6隻)は、26日に門司を出発する。立ち寄った台湾高雄で、海防艦満珠とタンカー2隻(黒潮丸、良栄丸)が加入する。かわりに、めるぼるん丸と3隻(間宮、香久丸、掃海艇21号)が分離した。11月9日、ヒ79船団部隊はシンガポールに到着した。 能美がシンガポールへ向け航行中の11月1日、本艦は第一海上護衛隊に編入されていた。シンガポール滞在中の11月15日、第101戦隊(司令官渋谷紫郎少将)が新編され、香椎は同戦隊の旗艦となった。だが渋谷司令官は香椎に着任できず、ひきつづき第五護衛船団司令官(吉富少将)が香椎より復航のヒ80船団を指揮する。11月17日、ヒ80船団部隊(護衛隊〈香椎、鵜来、笠戸、能美、満珠、三宅、十七号、新井埼〉、加入船舶8隻)はシンガポールを出港した。サンジャック行の第17号海防艦が分離したあと、同地より第23号海防艦と第51号海防艦が合流する。また台湾行の3隻(新井埼、良栄丸、有馬山丸)を分離したあと、ヒ80船団部隊は被害なく12月4日佐世保に到着した。 12月4日から11日まで佐世保海軍工廠で整備、磁差修正等を行う。整備中の10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊(司令長官岸福治中将)に改編された。12日、モタ28船団部隊(護衛隊〈能美、三宅、第20号海防艦、第112号、第138号、ほか2隻〉、加入船舶不明)は佐世保を出発した。22日、モタ28船団部隊は台湾高雄に到着した。25日、ヒ85船団部隊(司令官渋谷紫郎少将)が高雄に到着し、両船団の再編が行われた。26日0900、タマ38船団部隊(護衛隊〈三宅、能美、第20号、第39号、第112号、第138号〉、陸軍特殊船〈神州丸、吉備津丸、青葉山丸、日向丸〉)は高雄を出撃した。29日1700、タマ38船団部隊はルソン島サンフェルナンドに到着した。30日の対空戦闘で青葉山丸と第20号海防艦が沈没したが、揚陸はおおむね成功した。 1945年(昭和20年)1月1日午前8時、マタ38A船団を護衛していた海防艦干珠と生名を加え、マタ40船団部隊(護衛隊〈三宅、干珠、能美、生名、第39号、第112号〉、陸軍特殊船〈神州丸、吉備津山丸、日向丸〉)は高雄にむけサンフェルナンドを出発した。3日早朝、高雄港外に到着した。ここで米軍機動部隊(第38任務部隊)の空襲をうけ神州丸が沈没、吉備津山丸が大破、日向丸も小破、海防艦にも損傷艦が出た。4日、能美はタモ35船団と合同のため高雄発、同船団を南澳島まで護衛し、7日高雄に帰着した。 10日、三宅と能美はヒ87船団に加入してシンガポールに向かうことになった。高雄出発時のヒ87船団部隊は、護衛隊(駆逐艦時雨、海防艦干珠〈第七護衛船団司令官駒沢克己少将旗艦〉、三宅、能美、倉橋、新南、屋久、第13号、第41号、第205号)と特務艦神威ふくめ油槽船6隻となっていた。13日午後、ヒ87船団部隊は香港に到着した。香港在泊中の15日と16日、米軍機動部隊艦上機の空襲でヒ87船団部隊は大打撃をうけ、神威等の沈没や擱座により健在のタンカーはさらわく丸1隻となった。護衛隊も次々に損傷し、能美では後部高角砲が破損、戦死者7名であった。17日、ヒ87船団先遣部隊として香港発。22日、サンジャック着。28日、ヒ88B船団(2隻)を護衛してサンジャック発。29日、パンフォン湾に入港。30日、パンフォン湾を発し対潜掃蕩を行ったが、31日に輸送船が2隻とも撃沈された。能美は単艦でサイゴンへ回航。2月3日、サイゴン着。
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