1944年10月 連合艦隊作戦指揮下
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「第二十二号海防艦」の記事における「1944年10月 連合艦隊作戦指揮下」の解説
1944年10月17日、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入。18日、佐世保から徳山に回航。19日、連合艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分第一機動主力部隊に配置。21日、、第29号海防艦、第33号海防艦と共にたかね丸(日本海運、10,021トン)を護衛して奄美大島へ向け徳山発。25日、奄美大島古仁屋着。28日、内地へ向け古仁屋発。30日、たかね丸がウルフパックの攻撃により被雷し、大破放棄された。第22号海防艦は現場でたかね丸乗員を収容中、北緯30度25分 東経133度00分 / 北緯30.417度 東経133.000度 / 30.417; 133.000の地点で艦首方向に浮上潜水艦、すなわち爆雷戦で損傷し浮上したサーモンを発見し、他の護衛艦に報告しつつ全速で追いかけた。第22号海防艦は慎重に、状況を判断するまで短時間距離を維持した。第22号海防艦からの報を受けて、第33号海防艦も助太刀で向かいつつあった。そして、一時の雨の中、反転したサーモンと第22号海防艦は500メートルもない至近距離で派手な砲撃戦、銃撃戦を展開。第22号海防艦とサーモンの距離は一時50メートルにまで縮まった。第22号海防艦の方が乾舷が高いので、よく被弾した。また、サーモンの20ミリ機銃と小口径機銃の射撃で第22号海防艦の乗員4名が戦死し、24名が負傷した。艦橋部分も激しく被弾し、指揮系統は大いに乱れた。この時になって第33号海防艦が追いつき、挟撃態勢に持ち込んだ。サーモンは第33号海防艦にも砲撃を行いつつ友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し、スコールを利用して燃料を流しつつ戦場を離脱した。第22号海防艦は艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日に呉に帰投。右舷側にはサーモンとの激戦の痕を示す無数の弾痕が残された。大破したサーモンもまた逃げ切り、一緒に行動していた米潜スターレット、トリガーと、シルバーサイズ の護衛によりグアムに後退。後にハワイを経由してアメリカ本土に帰還した。サーモンはポーツマスで修理を行ったが、二度と前線に出ることが無かった。また、放棄されたたかね丸は米潜スターレットの攻撃で沈没した。
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